〈爲永清嗣〉視覚でも美味しいものを味わって欲しい ~爲永清嗣が語るアートの魅力と日本人観

インタビュー

1969年日本で最初の西洋絵画の巨匠を扱う画廊として誕生し、40年以上の歴史を持つギャルリーためなが。名匠と呼ばれる作家の名品の数々を、国内有数の美術館や個人コレクターの方々に納める一方、才能ある画家を育成、世に送り出し、その活動はフランス美術界を中心に、現在はアメリカ、アジアなど世界各地へと拡大しています。国際人として育った爲永さんの環境やこれまでの軌跡、日本観などについてお話をお聞きしました。

自発的に選び、得て来た経験や環境を生かして家業を承継

神原
爲永さんは最初、ギャラリー経営とは関係のないお仕事をされていらっしゃったのですね。

爲永
ギャルリーためながは私で2代目ですが、幼い頃から父に後を継がせる気はないと言われて育ったので大学卒業後、美術とは全く縁のない日本興業銀行を就職先に選びました。但し小さい頃から旅行に行くと先ず訪ねる先は美術館という環境で育っていたのと、同様に毎日を美術品に囲まれて過ごしているので金融よりは美術に詳しい銀行員だったかもしれません。

神原
興銀に入られて、結局アートの世界に戻って来られたわけですが、決断のきっかけはなんだったのでしょうか?

爲永
自分で仕事を始めた場合、大抵の業種では大商社、大銀行には到底太刀打ち出来ない事は興銀にいて充分理解していたので先ず大手が参入しないという点が重要でした。絵画の場合基本的には作家が制作する作品を扱うので当然大量生産は出来ない点、美術品としての価値も単純な技術に裏付けされるものではないという点等から大企業が参入しても採算の合わない業種であることは明白なのでここでなら一番を目指せると思いました。何よりも生まれ育った環境が最大限生かせる上に素直に美術が好きだったという事で決断しました。

名品だけでなく、才能ある画家を世に送り出すのも仕事

神原
画廊経営というお仕事について教えてください。

爲永
単純にいうと美術品の売買で、深い部分でいうと信用商売ですが如何に素晴らしい作品を多く画廊に揃えられるかという事が重要です。お客様は皆さんそれぞれの分野で成功された方達で、銀行に残っていれば頭取にでもならないと直接お会いする機会がないような方達と若い頃からお会いする機会が多くあったのもこの仕事の特異な面かと思います。

神原
ギャルリーためながは、インターナショナルな価値のある数々の作品を日本に紹介して来たという点で、日本人が欧米の美術品に接することができる機会を提供してきたと思うのですが、爲永さん自身が、日本をはじめ、世界中の若手アーティストを育成・紹介していくということはあるのでしょうか。

爲永
実はそれが、私にとって最も重要な仕事だと思っています。既に名品とされている作品を紹介することはとても大切なことですが、それは良い作品を判断出来て、その作品を見つけて来る先を知っていれば後はそれだけの価値を保障出来る信用が私にあるかないかの問題です。その信用については長年大きな店を一等地に構えていることで補える部分は多いと思います。一方、将来に向けて価値が未定な作家の作品を世に出すにあたって信用は勿論のことですが展覧会を開いたり、画集を作成したりしながら世界のコレクター達に評価される環境をいかに設けるかということです。アーティストにとっては国際的な評価は非常に意味のあることなので我々にとって最もやりがいのある仕事だと感じています。何より大事なのはその才能を見つけて伸ばすことでしょう。

国際的に通用する美術品は、為替の影響を受けない稀な“金銭資産”だが・・・。

神原
金融のバックグラウンドをお持ちの爲永さんにとって、「資産」としての美術品については、どのようにお考えになっているのですか?

爲永
国際的な美術品は為替ヘッジがされているという点と移動が可能な資産という点で海外では多くの富裕層の方の資産ポートフォリオの一部を担っています。
為替が大きく変動する昨今を例にとるとユーロの金融資産やユーロ圏の不動産資産を保有している日本の方達にとってはユーロでの価値が上がっていても現実には1ユーロ/170円の時に比べれば為替で40%価値が下がっているわけです。その点美術品はユーロ圏が弱ければニューヨークでもロンドンでもブラジルでも日本でも売却出来、為替の下落の影響を受けません。今は超円高ですが将来仮に日本経済が破綻して円の価値が暴落した場合でも持ち運びの可能な美術品はパリに送って売却すればユーロで受け取れるわけです。
良い例として’97年のアジア通貨危機の際に私のインドネシアのお客様達の資産の中で現金はもとよりルピア建ての株式、不動産他全ての国内資産が対ドルで6分の1位(?)に値下がりしましたが唯一私から購入していた美術品だけが危機前の価値を保てたと喜ばれました。
但しこの際一番大事な点はその作品が国際的な美術市場で評価されているか否かによって全く異なります。あくまでも日本国内だけで評価されている作品は日本円が暴落した際には同様に暴落するので意味がありません。

神原
例えば金融の世界で急にお金持ちになった人が出てきたり、大富豪が凋落していったり、お金持ちと一口に言っても時代によって変化があると思います。このことは美術界に与える影響や変化はありますか?

爲永
最近金融ビジネスや新興国で突然お金持ちになった方達の多くは美術に囲まれずに育ってきているせいか美術品に対して作品の「質を感じとる」というよりも「有名だから」、今買っておくと将来価値が上がるから」という類の観点で購入する方も非常に多い気がします。
そこを逆手にとって私的には全く美術的価値のない作品を数回に亘ってオークションに出品した上で数千万円、数億円という価格帯まで自らせり上げている輩が目に付きます。その後で美術に疎い方達にそのオークション結果を踏まえて法外な価格を信じ込ませるという錬金術というか詐欺的な商法が現代美術を中心に横行していることは嘆かわしいことです。
更にはいつか暴落すると言われている現代美術市場で将来騙された方達が「美術品なんて、いかがわしい」という偏見を持ってしまい、結果として美術離れが起こってしまう。そうなると大変残念なことだと危惧しています。

いつの友人とも直に会い、築き上げる爲永さんの“人的資産”

神原
爲永さんは中学生の多感な時期に自分の意思でスイスに留学して、高校ではアメリカで勉強をされています。留学先では色々な国のお友達ができたと思うのですが、その方たちとのお付き合いは今も続いているのでしょうか?

爲永
留学で、自分を確立していくということを学びました。自己主張をしないと生きていけない、誰も手を差し伸べてくれないということを非常に感じました。その雰囲気の中で、自分は毎日闘いながら自分の位置を見つけていったという感じです。周囲の人にとってみれば、中国と日本、香港と東京の違いも分からないというような場所・時代でしたので、私を見て「日本人とはあのような人だ」「やっぱり日本人なんてダメだね」とは絶対に言われたくなかった。私は日本を代表しているという意識を常に持っていました。ですから、自分の部屋に、いつも大きな日の丸を貼っていました(笑)。多分、当時は皆そうだったのではないでしょうか。

寝食を共にした友人は特別ですので世界中を仕事で飛び回る際に機会があれば当時の友人達と会っています。卒業以来会っていなかった友人と30年振りでも会えば抱き合って再会を喜べるのは朝起きてから寝るまでずっと一緒に勉強し、遊んだ仲だからこそと思います。
特にスイスの学校は国際色豊かだったため世界中に友人が散らばっており最近もアブダビやバンコクで旧友に会って楽しめました。現在は私のルームメイトだった友人の息子がスイスで私の息子のルームメイトになったり、同級生だった友人の御嬢さんがやはりアメリカで私の娘の同級生だったりと、二世代に亘って母校を楽しんでいる感もあります。

視覚の感性を磨いて、深まりのある人生を送って欲しい

神原
ヨーロッパでは日常生活にの中でアートがとても身近にある印象ですが、日本とはどのような点で違うのでしょうか?

爲永
日本は食べ物に関しては、もの凄く美味しいレストランもあるし、ワイン通も沢山いらっしゃる。音楽にしても高い料金を払ってコンサートやオペラを聴きに行くという点で、人間の五感の中の味覚や聴覚にはそれなりの贅沢をしていると思うのですが、こと視覚ということでは、日本人はあまりにも欠落しているのではないかと感じています。
同じ時間を生きていく中で、そこの部分が完全に欠如しているというのはもったいない。美術品を買え、ということではなく、興味をもってそれを楽しむということ、自分がそこに気を留める。友人の家に行ったときにそこに気を留めて、素敵だなとか趣味が悪いなとか(笑)、そういう意識を持って観ていく。自分が生きていく空間の中に作品があってそれを楽しむといったことが、もっとあると良いと思うのです。そして、美術館で何か開催されていれば観に行こう、展覧会があれば覗いてみようということが、美味しい料理のレストランに行ってみるのと同じ感覚、好きな音楽家のコンサートに行こうという感覚であって良いのではないかと思います。

神原
まずは興味を持たなければいけないということですね。

爲永
そうです。まずは興味をもつところから、ということが大事だと思います。それによって好き嫌いがはっきり言える、それが重要ではないでしょうか。それから自分の許容範囲内で美術品を身近において、視覚的に、自分の生きる空間の中で楽しむことで、自分の感性が磨かれていく。そのようにして親しんでいくことによって自分に深まりが出てくる。同じ時間を生きていくのなら、そういう深まりを持った人生を送って欲しいと思います。日本のように2000年近い歴史があり、これだけ素晴らしい文化のある国は少ないと思います。江戸の文化も、庶民文化から発達してあれだけの水準になった訳ですから、その意味では日本人の視的感性は、昔は高かったはずですし、浮世絵が瓦版で回ったという事実もあり、文化的に申し分ない環境の中で培われて来たと思います。この100年くらいの間、一体どうしたのだろう、という凋落の状況が残念です。

神原
金融・経済上は「失われた20年」ですが、文化的には「失われた100年」かもしれませんね。

爲永
文化的な面ではそうですね。海外では基本的に明治以降の作品については評価が低く日本美術は江戸時代までというのが一般的です。但しそれまでの時代はボストン美術館展をご覧になってもお分かりのように、とても高く評価されており世界的にも価値が認められています。以前は浮世絵などを通じて印象派の画家達にも多くの刺激を与えた程の芸術が存在したのですが明治以降日本は経済に走って、文化が取り残されたのかも知れません。

家はとても心地良いところ。その当たり前のことに感謝の気持ち

神原
アート以外で、爲永さんが大事だと考えているものは何かありますか?

爲永
家内です。だから結婚したということですから(笑)。

神原
それはすてきですね!爲永さんは頻繁に海外に出かけていらっしゃいますが、ご家族に対しての時間の作り方とか、親として、あるいは夫として、どんなことを気にかけていらっしゃいますか?

爲永
私は年間の半分以上を海外で過ごしているので、なるべく家族との時間を多く共有しようと心がけています。今は家族が日本ですので、日本にいるときの9割位は家族と一緒に夕食を食べています。家族との旅行も多い上に食事の接待もゴルフもあまりしませんので、年間の半分を留守にしていても家族と過ごすという意味では他の方に比べても密度は濃いかと思います。3人の内2人の子供は海外に居りますので反抗期も大して経験することなく、彼らにとっても家は寮と違って居心地の良い場所と当たり前のことを逆に感謝されています。留学していた際に私自身がそうでしたが家族や家庭に改めて感謝する気持ちを持てたという事は良かったと思っています。

神原
家があるということを当たり前だと思うのではなく、そこで感謝の気持ちが起こるというのは、大きいですね。

読者へのおすすめの本

神原
アートに関して、あるいは爲永さんのこれまでのご経験を通じて、何か推薦の本があったら紹介していただきたいのですが。

爲永
私は中学生の頃から海外にいましたので、科目として日本史を勉強したことがありません。それで、勉強という意識ではないのですが、自分の好きな時間に司馬遼太郎をよく読みました。彼の小説はフィクションではありますが、事実的背景を基にした小説ですので、日本史を網羅する上でも非常に役に立ちました。彼の求めている日本人観、日本人としての感性は、私には大変合っている、素晴らしい日本人観を持っているなという印象を受けました。またカミュやサルトル、彼らの本を読むことによって(出来れば原文で)現代のフランス人の根底にある何かを垣間見る事が出来るような気はします。

神原
この連載の読者は20歳~40歳、30代前後の人が多いのですが、爲永さんの30代の頃について、お聞かせ頂けませんでしょうか。

爲永
その頃、1990年ですが、私は興銀を辞めてフランスに行き、とにかく無我夢中で美術という、新しいビジネスの中に入って走っていました。またこの頃、日本はバブルが崩壊して経済的にも疲弊していた時期でした。そのような中、私はたまたまご縁があって、1997年のアジア通貨危機が来るまで、シンガポール、台湾、インドネシアなどのアジア諸国で仕事をする機会が多く、そこで色々な方にも会う機会がありました。インドネシアはスハルト政権の頃で、スハルト大統領のお嬢様と展覧会開催の仕事に関わったり、サリムグループというインドネシア最大の財閥と一緒に仕事をしたり、未だ美術が全く注目されていない時代にパイオニア的感覚で、これは非常に面白く、またやりがいもありました。若いから出来たということもあると思いますが、本当に世界を駆け巡っていたと云う感じで完全燃焼していたように思います。

神原
今回の爲永さんのインタビューをお読みいただくことで、少しでも多くの人が、もっと感性や視覚の面を意識して、自分が良いと思う美術作品を楽しむ、そのようなきっかけが出来るとうれしいですね。本日はありがとうございました。

(本記事は、2012年06月10日にファイナンシャルマガジンに掲載されたものを再掲載しています)

爲永 清嗣さん

ギャルリーためなが代表取締役

1964年、東京生まれ。Le Rosey ―ロゼ中学― (スイス)、St.Paul’s school ―セントポール高校―(アメリカ)、慶應義塾大学を卒業後、日本興業銀行入行。1991年退行後、渡仏。以降、パリの「ギャルリーためなが」を拠点に国際美術市場で活躍。

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