2018.7.3
学びの中で共感を得られる仲間との出会いがある
学而第一 1 子曰學而時習之章
子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
先師がいわれた。――
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。なんと生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、なんと人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか」(下村湖人『現代訳論語』)
現代訳を見て、まずはどのように感じるでしょうか。
例えば、学ぶことで自分の糧になるだけでも生きがいがあり、学び続ける途中で共感を得られる人との出会いがある。時にはコミュニケーションを楽しみ、さらに嬉しい気持ちになるだろう。でも、有名になることが大事なのではなく、人目を気にすることなく夢中であり続けられること自体が不安を少なくする、と読み解いたとします。
または、学ぶことそのものを生きがいとすれば、友達が増え、さらに学び続けることができる。努力の結果が報われないような不安を感じたとしても、懸命に学んだことは失われない、と読み解くこともできます。
論語から学ぶ時、人それぞれの解釈や理解が生まれます。そして、ごく当たり前のことを再確認できることもあります。
大切なのは受け取り方によって、読み解き方によって、過去の偉人の言葉を自分らしくプラスにできるということではないでしょうか。