2018.3.20
『お金原論』という本の命題は、「お金とは何か」ということ。
「お金」という軸を通じて自分自身をニュートラルに見ることができれば、人生をもっともっと楽しめるようになるだろう。
これから毎回、『お金原論』の中身を少しずつ伝えていく。すべてが賛同を得られるものであるという確信はない。しかし、生活や人生と切っても切り離せない「お金」というものについて、1人でも多くの人に「お金とは何か」という議論に加わっていただければ幸いである。
「お金」という軸を通じて自分自身をニュートラルに見ることができれば、人生をもっともっと楽しめるようになるだろう。
これから毎回、『お金原論』の中身を少しずつ伝えていく。すべてが賛同を得られるものであるという確信はない。しかし、生活や人生と切っても切り離せない「お金」というものについて、1人でも多くの人に「お金とは何か」という議論に加わっていただければ幸いである。
その「価値」を構成するものは何か
もう1つ、価値と価格を考えるうえで意識したいことがある。それが、その価値を生み出しているのが人、つまり人間なのか、それとも機械なのか、ということだ。
例としてわかりやすいのは寿司だろう。下積みから修行を重ねて技術を磨いてきた大将が、一貫一貫心を込めて握った寿司と、すべて機械によって自動化され、人の手を介さずに握られた寿司。同じようにカウンターで食べるにしても、その価値を構成しているものの中身は大きく違う。
寿司の名店と回転寿司ではそもそも価格帯が違うから、という単純なことではない。同じ700円の煮魚定食であっても、昔ながらの定食屋で提供されるものと、ファミリーレストランで提供されるものでは、過程がまったく異なる。
前者は(料理の腕前はともかくとしても)、仕入れた魚を店でさばいて鍋で煮て、経験をもとに調味料を加え、その都度、味見をしながら完成する。一方、後者は工場のラインで製造され、個別にパッケージングされて店舗に運ばれる。それをアルバイト店員が決められた時間、決められた温度で温めて提供しているのが一般的だろう。言ってみれば、スマートフォンやビニール傘と同じ「工業製品」である。
700円という価格は同じでも、その価値の中身は本質的に異なるということがわかる。
家具や服もしかりだ。職人が1脚1脚手作りしている椅子と、組立工場のラインの中で大量生産されている椅子。職人が1枚1枚裁断から裁縫まで手作りしているワイシャツと、縫製工場のラインの中で大量生産されているワイシャツ。これらの価値の違いは明らかだろう。
価値の違いは理解できるけれど、手作りのものは大量生産のものと比べて価格が高くなりがちだから、限られた収入の中では工業製品に頼ってしまうのも仕方のないことなのではないか、という反論もあるかもしれない。確かにそういった側面があるのも否めないが、これも突き詰めればこだわりの問題だ。