第1次世界大戦が終わり、それまで抑えられていた文化的エネルギーが一気にフランス・パリで沸騰します。多くの文化人がパリを訪れ、サロンを形成しました。ジャン・コクトー(詩人)やパブロ・ピカソ(画家)やストラヴィンスキー(作曲家)など錚々たる面々と交友を重ね、シャネルはサロンの中心的な人物として振る舞いました。
シャネルのラッキーナンバーは5
1920年代、シャネルは、ビジネスにおいても冒険的なチャレンジをします。有名な文化人たちが彼女の精神も刺激したかもしれません。ある天才的な調香師と知り合ったことをきっかけに、シャネルはオリジナルの香水を制作することにしたのです。シャネルは、調香師の彼に「女性そのものを感じさせる、女性のための香水を作りたい」と告げ、サンプル作りを依頼しました。
彼の作ったサンプルを試した結果、1〜5、20〜24のサンプルナンバーが振られた小瓶の中から、5番目のサンプルを取りあげシャネルはこれこそ求めてたものだと直感的に悟ったそうです。
彼の作ったサンプルを試した結果、1〜5、20〜24のサンプルナンバーが振られた小瓶の中から、5番目のサンプルを取りあげシャネルはこれこそ求めてたものだと直感的に悟ったそうです。
“5番目の月である5月の5日に発表する。この5番目のサンプルの名前は、運がいい名前だから、そのまま使う”
シャネルは調香師に伝えて、こうして、シャネルのNo.5は生まれました。
No.5の斬新なマーケティング戦術
化粧品の広告は、すでにこの頃から大々的に行われるのが慣習であり、新たに香水分野に乗り出した若手実業家のシャネルもこの手を使えたはずですが、シャネルは全く違うマーケティング戦術を使います。今でいう口コミ戦略なのですが、広い交友関係を使い、発信力の強い友人たちをレストランパーティーに招待して、No.5をこっそり付けてびっくりさせたり喜ばせたり、ごく限られた上流階級の婦人にプレゼントしてイメージの向上に努めたりしました。シャネルのNo.5は密かに知名度があがっていき、やがて彼女の経営するブティックには服ではなく香水目当てで訪れるお客も増え香水事業の成功も目前でした。
シャネルの法人化と大量生産大量消費時代へ
1924年、まずまずの成功に気を良くしたシャネルは、香水を大々的に売り出しても良い時期にきていると感じていました。そこでコネクションを使い、有名化粧品ブルジョワ社の取締役であるヴェルテメール兄弟に協力を仰ぎ、シャネルの香水事業を法人化して、シャネルとビジネスパートナーとなることを依頼しました。これが、その後20年以上続く闘争の幕開けになるとは、この時点では誰も想いもよりませんでした。
No.5の大々的な成功がシャネルの人生に暗い影をおとす
大規模な生産ラインと流通チャンネルを持つヴェルテメール兄弟の手腕は見事で、シャネルの香水に爆発的な売り上げと名声をもたらしました。しかし、シャネルにとっては面白くありません。ヴェルテメール兄弟と交わした契約では、パルファム・シャネル社の株式の70%は兄弟に、シャネルにはわずか10%の取り分で、おまけに香水事業の経営に口を出さないという契約まで交わされていました。No.5の驚異的な成功の後に、シャネルは大きな不満を抱えるようになってしまいました。
No.5を我が手に取り戻すためにあらゆる手段を尽くす
この頃、シャネルは他の新規事業として宝石やアクセサリーのデザインにも乗り出します。その分野でも、そこそこの成功を収めたのですが、シャネルにとっての問題は、香水事業の大きすぎる成功でした。
シャネルNo.5は、自分に莫大な富も名声ももたらしたはずなのに、自分はわずかしか恩恵を受けていない、と主張し始めたのです。
1940年代の半ばまでには、全世界におけるシャネルの売り上げは年間900万ドルに達していました。もちろんシャネルには株を通して配当も入っていましたが、人間は得られた利益よりも得ることのできなかった利益の方に目がいくものです。シャネルは普通では考えられないような手段にうって出ます。
シャネルNo.5は、自分に莫大な富も名声ももたらしたはずなのに、自分はわずかしか恩恵を受けていない、と主張し始めたのです。
1940年代の半ばまでには、全世界におけるシャネルの売り上げは年間900万ドルに達していました。もちろんシャネルには株を通して配当も入っていましたが、人間は得られた利益よりも得ることのできなかった利益の方に目がいくものです。シャネルは普通では考えられないような手段にうって出ます。