2.事業に邁進するシュリーマン
若干22歳で経済的自立を果たしたシュリーマンは、ドイツの少年時代の友人を介して、忘れえぬ初恋の人ミンナにこれまでのすべての経歴を説明しプロポーズしました。しかし1カ月後の友人の手紙は、少し前のミンナの結婚を告げるものでした。
人生で遭遇する最も手ひどい運命の一撃にシュリーマンは愕然としつつも、愛も時の流れと同じく移ろいやすく、時には冷淡なものであることを悟りました。だからと言ってミンナを恨むことはありませんでした。
(1)戦争成金となったシュリーマン
ミンナへの思いが吹っ切れたシュリーマンは商人としての活動に再び邁進します。
1853年に勃発したクリミア戦争で、シュリーマンは他の投資家が尻込みする中、大胆に取引を繰り返して硝石・硫黄・鉛などの戦需品を大量に売りさばき、さらに1861年のアメリカの南北戦争では大量の綿花を買い占め、シュリーマンは一躍戦争成金として名を成しました。
シュリーマンのたぐいまれな商才は、その他の分野で展開した事業でも発揮され、サクラメント(砂金買い付け)、サンクトペテルブルグ(雑貨販売)、パリ(不動産取引)、アメリカ・キューバ(鉄道会社)、ブラジル(国債投資)など世界規模のネットワークで営まれた事業で、シュリーマンは莫大な富を築きました。
(2)事業を清算したシュリーマン
1863年、係争中の民事訴訟で勝訴し懸案事項を解決したシュリーマンは、突然事業の清算に取りかかります。遺跡発掘という人生の大目標の達成のための手段として営々として続けてきた事業から身をひき、考古学に残りの余生を捧げ宿願を実現しようとしたのです。
それからのシュリーマンは、パリに居を構えてギリシャ古代史の本格的な研究やイタリアのポンペイ・ヘルクラネウムなどの古代遺跡踏査などで考古学の知見を深めていきました。
3.トロイの遺跡を発掘したシュリーマン
1870年、シュリーマンは大規模発掘作業が展開できる資金とディレッタント(好事家)としての独特の着眼点をもって、小アジア北西部のヒッサリクの丘に初めて鍬(くわ)を入れ、四度にわたる発掘でこの地が古代のトロヤの遺丘であることを証明して世界に大きな衝撃を与えます。そしてトロヤの発掘にあわせて、ギリシャ本土でもミケネ、ティリンスなどの発掘を行い、彼の生涯の目的であったホメロスの世界の実在を立証したのです。
日の目を見たホメロスの世界の遺跡群は、二つの先史文明(古代トロヤ・ミケネ)の関係を明らかにし、エーゲ海周辺で栄えた青銅器文明「エーゲ文明」の存在を裏付けました。この文明史に燦然と輝く偉業は、シュリーマンの風変わりな経歴とともに、文明世界に強烈な印象を与えました。