宝塚が生まれたきっかけは、ある事業の失敗から
小林一三による郊外開発は目まぐるしい勢いで進んでいきます。
宅開発と同じようにレジャー施設も同時に開発していた小林の考えは、「大阪へ向かう一方通行ではなく、地方にも目的地を作って電車の利用客を伸ばそう」というものでした。このため、当時終点の宝塚には目玉として、何か大きな施設を作ることが必要でした。前年に箕面には動物園を開園して、次の年、宝塚に作ったのが「宝塚新温泉」でした。
しかし、この宝塚新温泉事業は、大失敗してしまったのです。
プール跡地を客席に、脱衣場を舞台に
新温泉というだけあって、普通の温泉ではなく今でいうスパのような施設だったと言われていますが、時代的には男女が一緒に入れないのは当たり前で、そういう事情であれば家族でわざわざ遊びにくる必要もなく……おまけに、屋内に作ったプールは陽光が入らないため、夏以外では冷水となり、とてもじゃないけどプール遊びをできる環境ではありませんでした。(ヨーロッパの屋内プールは温水にするのが常識ですが、この当時、それを 知っている日本人はほとんどいませんでした。)
早々に宝塚新温泉を閉めた一三は、水を抜いたプールの跡地を入って、あることを思いつきます。
「ここを劇場にしてみるのはどうだろうか?」
高い天井と密室度の高い建物は、劇場におあつらえ向きです。プールの浴槽を観客席に、プールサイドと脱衣場だった部分を舞台に見立てれば、一部の改修で、すぐに準備ができるはず! そう思い立った小林一三の行動は素早いものでした。さっそく演者を養成するために宝塚少女歌劇団を結成して、準備を開始したのでした。
高い天井と密室度の高い建物は、劇場におあつらえ向きです。プールの浴槽を観客席に、プールサイドと脱衣場だった部分を舞台に見立てれば、一部の改修で、すぐに準備ができるはず! そう思い立った小林一三の行動は素早いものでした。さっそく演者を養成するために宝塚少女歌劇団を結成して、準備を開始したのでした。
初公演は、無料ですべての来客に解放
1913年、4月初演のタイトルは「ドンブラコ」。桃太郎をモチーフにした演目で、東京の歌舞伎座ですでにかけられていて、モダンな内容で評判を呼んだものでした。それを美しい少女たちだけでやると触れ込み、プールを改装した劇場を無料解放したら、連日の大入り満員。鉄道の利用客も宝塚歌劇団見たさでうなぎのぼりに増えていきました。
ちなみに宝塚歌劇団の特徴あるスタイルは、スタートしたこの時に小林一三が決めたものが多くあります。出演者は全員未婚の女性。演者はすべて宝塚音楽学校出身の生徒を使うことしか許されません。まるで、梨園に支配されている歌舞伎の世界のようですね。
小林一三は、歌の好きな良家の少女を募集し、水準以上の給金を支払い、音楽教育以外に「清く、正しく、美しく」に代表されるような人間教育にも力を入れました。