フィギュアスケートとの出会い。
STAGE編集部:伊藤みどりさんや浅田舞・真央姉妹、宇野昌磨選手を輩出した「大須スケートリンク」でキャリアをスタートした村上さん。フィギュアスケートを始めたきっかけは?
村上:6歳年上の姉がいて、その影響で3歳のときにはじめて氷の上に立ちました。父が仕事休みの日曜日だけ一緒に滑っていたというのはなんとなく覚えているんですけど、まだ物心つく前でしたね。当時は私よりもむしろ母の方が熱心で、怒られた時も「なんで怒られているんだろう?」と思っていました。
それでも、姉にだけは絶対負けたくなかったんです(笑)6つ離れていると何をしても負けてしまうので、なんとか「スケートだけは!」と思って頑張りました。それから、より本格的に練習するようになったのは小学3年生のとき。強化選手に選ばれて海外の試合に出たのがきっかけです。
STAGE編集部:トップを目指すためのハードなトレーニングがスタート。
村上:リンクでの練習のほかに、バレエをはじめタップ、ヒップホップ、ジャズなどトータルなダンスを習っていました。うちの近くのダンススタジオに夜11時、12時までいて、そのまま帰って、寝て、学校に行って、また練習に行ってという毎日。起きている間はすべて動いている時間。座っていたのは移動か学校の授業中かぐらいじゃないでしょうか(笑)
STAGE編集部:すべてがスケートのための生活のなかで学校は?
村上:正直、小中学生の頃、学校はあまり好きではなかったですね。大会などで学校に行けなかったりもするときもあり、そうすると、なかなか話題についていけなくて会話に入れなかったり…でも大好きだったのは給食の時間です!
フィギュアスケートは体重の管理もしなくてはいけないので、普段の外食では母に「たくさん頼んでいいから一口ずつにしなさい」や、定食を頼んでも「最後の一口は残しなさい。その一口で変わるから。」と言われていたんです。その反動というか、元々食いしん坊なので誰にも見られていない給食だけはたくさん食べていましたね(笑)
村上佳菜子を育てた「もう一人の母親」の存在
STAGE編集部:世界初のトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんをはじめ、浅田真央さん、宇野昌磨選手などを指導した恩師、山田満知子コーチとの関係とは?
村上:満知子先生とは本物の家族のように接していました。先生の家族旅行にも一緒に行っていましたし、中学生のときは帰る場所まで先生の家でした。過去には伊藤みどりさんも先生の家で暮らしていたそうですが、当時の私は世界ジュニアに向けての練習をしていて一緒に住んでいた方が楽だという話になり、母と二人で先生の家に住まわせてもらうことになったんです。
STAGE編集部:しかし、特殊な環境ゆえの苦労も。
村上:満知子先生は私にとって母のような存在。2人のお母さんがいるような感じだったのですが、それが辛く感じる時期もありました。反抗期には、先生がリンクで「佳菜!」と呼んでいるのに、わざと避けて回っていたこともありました。それが原因で試合前なのに1週間レッスンを受けさせてもらえなかったりしたこともありました。「リンクから上がりなさい」と。当時は毎日謝りに行っていました。
皆さん、私がよく笑っている印象を持って下さっているんですが、練習では毎日泣いていましたし、今振り返ってみると他の選手に比べても苦しかった時期も多くありました。それでもスケートを嫌いにならずに頑張れたのは、やっぱり満知子先生の言葉があったから。
STAGE編集部:山田満知子先生から贈られた言葉と、変化した意識。
村上:それは「愛されるスケーターになりなさい」という言葉です。1位になっても、みんなから愛されていない人間だったらすぐ忘れられてしまう。1位になれなくても、みんなから愛されていたら、ずっとみんなの心に残っていく。そういうスケーター、そういう人間になりなさいと教えてくださいました。
その言葉をいただいてから、アスリートとしては駄目なのかもしれないですが、ライバル心というのはあまり出なくなっていきました。とにかく自分のベストを尽くせば結果はついてくる。あの人が失敗すれば…と思っている時点で心がゆがんでしまっているし、そういう心の状況も演技に表れるので。
競技人生最大のピンチが最高の瞬間に!
STAGE編集部:競技生活で最も辛かった時期は?
村上:ソチオリンピックのシーズンは本当に辛かったです。その前のシーズンの最後の世界選手権で、自分の中での最高の演技ができたんです。でも「燃え尽き症候群」のようになってしまって。そのタイミングで大学に入学し、環境も変わって、全くスイッチが入らないまま、ぬるっとスタートしてしまったんです。最初の方は、最下位になるぐらい状態が悪くて、このままじゃ代表にも選ばれないと周りからもすごく言われて、初めて本当のプレッシャーというものを感じるようになりました。
あっこちゃん(鈴木明子さん)と真央ちゃんと一緒にオリンピックに行きたい、というプライドはあるのですが、うまく心が乗ってこない。体も動かないという苦しさにずっと悩まされていました。そして、そのまま最後のチャンスの全日本選手権まで2週間というところまでいってしまったんです。
STAGE編集部:全日本選手権まで2週間。そこで下した大きな決断とは…
村上:思い切ってショートプログラムの曲を変えることにしたんです。直前のショートプログラムだけの大会のときに、もうこの曲では駄目だなと思って、先生にそれを話そうとしたら逆に先生からも言われて。その試合の夜にはリンクを貸し切って、振り付けをやり直しました。通常3か月かけて仕上げるプログラムを直前に変更したあの決断は本当に大きかったと思います。
結果的にガラッと心機一転、スイッチが入ってうまくいったのですが、その全日本はよくアスリートが言う「降りてきた」体験をした唯一の試合でした。普段はミジンコのハートですぐ緊張してしまう私が(笑)不安なことがたくさんあるはずなのに、しかも私の前に宮原選手がすごい点数を叩き出していたのに「大丈夫、出来る!」と思えたんです。本当に思い出しただけでも鳥肌が立ってしまうほど。後にも先にもあんな試合はないですね。
母も先生も、あまり「やったー!」と感情を出すタイプではなのですが、試合が終わってご飯を食べにいったときの嬉しそうな声、嬉しそうなしぐさは忘れられません。
ソチオリンピック後の現役続行。そして浅田真央さんとの思い出。
STAGE編集部:ソチ五輪から22歳で引退するまでの経緯は?
村上:ソチが終わったタイミングで先生には「ここからがもっと苦しくなってくるし、若い世代が上がってくる。それを乗り越えられるなら良いけど、今やめるのがきれいだと思う」と言われました。でも、自分の中でまだ出来るという気持ちが強くて「先生ごめんなさい、やらせて下さい。」とお願いして続行を決断しました。
ただやっぱり苦しくもあり、ソチまでは真央ちゃんとあっこちゃん(鈴木明子さん)に置いていかれないようにというモチベーションで頑張ってきましたが、ソチが終わって2人がいなくなったときに「あれ、今までどうやっていたんだっけ?」となってしまっていて。頑張ってはいるのですが、全く気持ちが入っていないから物にならないんです。
そんな時、真央ちゃん本人に相談したんです。そうたら真央ちゃんは「でも、佳菜子の方がたくさん経験しているから。それはスケートに表れるから大丈夫だよ。」と言ってくれて、もうその言葉がすごく――真央ちゃんもそういう気持ちでやっていたんだなと思って心が震えましたね。
STAGE編集部:再び気持ちを奮い立たせてリンクに向かい、2017年4月に競技生活にピリオド。同じ月に浅田真央選手も引退を表明した。
村上:当初、私は真央ちゃんが復帰したという事は平昌オリンピックまで続けるんだろうと思っていたんです。その頃は平昌の前のシーズンが終わったタイミングで、私の家で「ちょっと旅行に行こうよ!」と話していて、予定を合わせるつもりで「でも真央ちゃん、来シーズンの振り付けとかあるもんね?」と聞いたら「うーん…実はやめようと思っているんだよね。」と。そこではじめて聞いて、もうお互い号泣。「頑張ったよね、真央たち」と言ってくれて。真央ちゃんにそう言ってもらえた事が本当に嬉しかったし、私よりもっと苦しかっただろうなと思うと涙が止まらなくて。「ご褒美旅で行こう!」ということで沖縄の旅を決めたんです。
スケートの話はなし、スケート靴もなし、食事制限もなし!2人でやりたいことを全部やろう、飛行機もホテルも自分たちで予約してという感じで。初めてスケートのことを一切考えずに旅行したのですごく気持ちよかったですね。ただ、その時は2人とも引退発表する前だったし、あまり目立たないように心掛けての旅でした。