2019.4.16
1語学の才を磨いた高橋是清の幼少期
高橋是清は、嘉永七年(1854年)幕府御用絵師の庶子として生まれ、縁あって仙台藩江戸上屋敷足軽・高橋是忠の養子となり、10歳頃、藩内の洋学振興を図る仙台藩から横浜での英語修行を命じられました。
(1)横浜時代の高橋是清―カルビニズムとの出会い
高橋是清が英語を学んだヘボン夫妻はカルバン派のキリスト教徒で、カルバン派では倹約と勤勉を美徳としました。夫婦が日々の信仰の中で拠り所としたそのカルビニズムは、後年の高橋是清の信条「仕事に誠心誠意であたり、仕事に安んずる」に色濃く影響を及ぼします。
高橋是清が英語を学んだヘボン夫妻はカルバン派のキリスト教徒で、カルバン派では倹約と勤勉を美徳としました。夫婦が日々の信仰の中で拠り所としたそのカルビニズムは、後年の高橋是清の信条「仕事に誠心誠意であたり、仕事に安んずる」に色濃く影響を及ぼします。
(2)英語修学に熱意を燃やした高橋是清
慶応三年(1867年)に語学生として渡米した高橋是清は受け入れ先の米国人の奸計でオークランドの農家に牧童として身売りされました。しかし、高橋是清はこのような劣悪な環境の中でも英語修学の熱意を絶やしませんでした。
慶応三年(1867年)に語学生として渡米した高橋是清は受け入れ先の米国人の奸計でオークランドの農家に牧童として身売りされました。しかし、高橋是清はこのような劣悪な環境の中でも英語修学の熱意を絶やしませんでした。
明治元年新政府の樹立など日本の大激変を知り他の留学生とともに帰国しましたが、牧童の仕事の傍ら日々の研鑽で培った英語力は他の留学生を大きく凌駕し、翌明治二年には、その語学の才を認められ「大学南校」の英語教官手伝いに任命される程でした。
2遊びで身を持ち崩した高橋是清
若年15歳で英語教官手伝いとなった高橋是清ですが、良いことは続きません。明治三年秋、勉学を怠り茶屋遊びに明け暮れていた旧知の南校生3人に両国茶屋に連れ込まれ、茶屋遊びを初めて経験しました。
(1)茶屋遊びに耽る高橋是清
高橋是清は、それまでは世間の遊びも知らない若輩であり、また性分として何事も一心に打ち込む気質から茶屋遊びに夢中となり、いつしか馴染みの芸妓もでき学校も欠勤がちになりました。
ある日学校を欠勤して、遊び仲間と芸妓を連れて浅草芝居を見物中、芝居幕間に桟敷に入ってきた南校の外人教師達に見つかり、高橋是清は一連の素行不良の責任を取り退職しました。
高橋是清は、それまでは世間の遊びも知らない若輩であり、また性分として何事も一心に打ち込む気質から茶屋遊びに夢中となり、いつしか馴染みの芸妓もでき学校も欠勤がちになりました。
ある日学校を欠勤して、遊び仲間と芸妓を連れて浅草芝居を見物中、芝居幕間に桟敷に入ってきた南校の外人教師達に見つかり、高橋是清は一連の素行不良の責任を取り退職しました。
(2)芸妓の男衆に身を持ち崩した高橋是清
退職して収入が無くなった高橋是清には、遊び仲間の遊興費を立て替えた250両の借金証文が残っただけでした。この落魄した高橋是清を憐れんだのが馴染みの日本橋の売れっ子芸妓の桝吉で、彼女の家に転がり込んだ高橋是清を身の回りの世話をする男衆にして日本橋界隈のお座敷を廻りました。
退職して収入が無くなった高橋是清には、遊び仲間の遊興費を立て替えた250両の借金証文が残っただけでした。この落魄した高橋是清を憐れんだのが馴染みの日本橋の売れっ子芸妓の桝吉で、彼女の家に転がり込んだ高橋是清を身の回りの世話をする男衆にして日本橋界隈のお座敷を廻りました。
(3)花魁(おいらん)に説諭された高橋是清―人生の転機