「カンテサンス」を「何かのついで」にはしてほしくない
品川御殿山。いまや日本を代表するフレンチレストランである「カンテサンス」は、そのオフィスビルの角地にひっそりと佇んでいる。2006年5月、白金台に「カンテサンス」をオープンしてから7年。自らが理想とするレストランを実現すべく、2013年8月にここ御殿山で新たなスタートを切った。
最寄り駅である五反田駅からも、品川駅からも約1kmの距離がある。“立地が命”と言われる飲食業界において異例ともいえる選択には、やはり恐怖心がつきまとった。「どの駅からも遠いし、それまでの港区ではない品川区というポジション。本当に飲食店のニーズがあるのかな、と不安でした」。
しかし、それは岸田にとって願ってもいない挑戦でもあった。「例えば銀座なら、買い物をしたあとに食事をするといったニーズが確実にある。でも僕は、できればカンテサンスを目的として来てくれるお客様に対して料理を作りたかった」。
何かのついでとか、何かに近いからという理由でそのレストランを選ぶのではなく、「カンテサンスで食事をすること」そのものが、お客様にとっての大事なイベントとなる──それが岸田の目指す「カンテサンス」のあるべき姿なのだ。
実際、そのための努力は惜しまない。
「カンテサンス」の特徴のひとつでもある「Menu carte blanche(白紙のメニュー)」は、今もなお健在だ。初めて訪れた人は、このサプライズに心を躍らせるに違いない。
メニューは、「おまかせコース」ただひとつのみ。“おまかせ” といっても、その日に仕入れた食材を最高の料理に仕上げる、といった意味合いだけではない。どんなお客様が、誰を連れて来店するのか。いつ以来の来店なのか。どんな嗜好があるお客様なのか。そういったことをすべて踏まえたうえで構成される、そのお客様のためだけのオリジナルのコース。だからこそ、口に運んだ瞬間に感動が生まれ、お客様にとって忘れられない食事になる。
将来の夢に「食通になりたい」と書いた
岸田の「ひたむきさ」は子どもの頃からの肝入りのようだ。
中学生の頃、映画『ハスラー2』に出演していたトム・クルーズに触発されてビリヤードを始めた。プロにこそならなかったが、プールバーと呼ばれるビリヤードホールに足繁く通い、腕を磨いた。その後、料理の道を志すことになり、両立が難しかったためにやむなくやめたというが、「一度こうだと思うと徹底的にハマる、思いこみの激しいタイプ」と自認する。
「やっぱりこの業界、どれだけ打ち込めるかが大事。センスももちろん必要かもしれないけれど、やっぱり誠実さやどれだけ丁寧に時間をかけたかが、料理の内容にはっきり反映されると思っているので」と岸田は照れ笑いする。「そういう意味ではあんまり近道はないっていうんですかね、そういう職業だと思っています」。低温長時間ローストへの飽くなきこだわりが、言葉よりもその重みを醸し出す。
岸田と料理との出会いは、母親がもたらした。料理好きだった母。岸田家の食卓には、既成品を使わない手作りの料理が並ぶのが日常だった。共働きであったため、母が帰宅すると、みんなで分担しながら料理を作った。当時の岸田は、小学校低学年。「料理の世界に踏み込んだというより、物心ついたときから当たり前に生活の中にあった」と当時を振り返る。
娘と一緒に料理をするのが夢だったという母の想いに反して、生まれたのは3人の息子。それでも母はめげずに息子たちを料理教室に連れて行ったが、上の2人は料理にまったく興味を示さなかった。その中で唯一、母の思惑通りに料理好きになったのが、末っ子の岸田だった。
小学校の卒業文集には、将来の夢として「食通になりたい」と書いた。今思えばそれは職業ではないけれど、はからずも「コックさんになりたい」と書くよりは今の岸田の姿の本質をついているようにも思えるのは気のせいだろうか。
ずっとフランス料理一筋でここまで来た
フレンチを志すきっかけになったのは、中学時代の誕生日のお祝いだ。「フランス料理店に連れて行ってもらったんです。愛知県にあるアール・デコ様式のすごく古いクラシックなフランス料理店だったんですけどね」。そのときに、フランスの文化に初めて触れ、「すごいショックを受けた」という。「やっぱり華やかじゃないですか、フランス料理って。こういう料理が作れる料理人になりたいな、とそのとき思って、それからフランス料理一筋。そこからぶれたことはないですね。どの道でも、いろんなことに手を出すよりも、1つに絞ってこの分野だったら誰にも負けないっていうものを持ったほうがいいのかなっていうのがあって」。若くしてそんなふうに悟れるのも、岸田の冷静でひたむきな性格のなせる技なのかもしれない。
その後、料理科のある高校に進学し、卒業後は最初の修業先となる志摩観光ホテルのレストラン「ラ・メール」に就職をする。当時、地方で成功している唯一のフランス料理店。もちろん扉は簡単に開かない。夏休みに住み込みのアルバイトをしながら顔を売り、なんとか勝ち得た就職だった。
就職後は、同期がひとり、またひとりと辞めていくなかで、必死でしがみついた。そして、修行をしながらも、時間を見つけては東京に行ってひたすらいろいろなフレンチを食べ歩いた。それから4年後の1996年には、「食べ歩いた中で料理の虜になった」という渋谷区のレストラン「カーエム」に転職。ここでも最初は何度か断られたが、あきらめずにアタックしているうちに扉が開いた。こうして、ひたむきさによって開かれたの扉の連鎖が、岸田の料理人としての輝かしいキャリアを築いていく。
結果を出せばそれに見合った評価がついてくる
2000年、岸田は自らの舞台をフレンチの本場、フランスへと移す。「僕がフランスに渡ったのと同時期に、アストランスというレストランがオープンして、数カ月後にはミシュランで星を獲得したんです。その当時からここで働きたいと強く思っていて、食事に行っては、その都度お願いをしていた。でも、小さい店だからポストはないよと断られ続けて」。
しかし、チャンスは巡ってきた。何度も足を運び、顔を覚えてもらえた甲斐があって、「研修生だったらいいよ」と2ヵ月だけ働くことを許されたのだ。「2ヵ月という短期間ではあるけれど、とりあえず自分のできることはすべて全力でやってみよう」。そう心に決めて必死で頑張った。
その熱意と実力を認めてもらうのに大して時間はかからなかった。2ヵ月後には、研修が終わるはずの約束が、正社員として雇用された。そして翌年には、シェフに次ぐポジションのスーシェフ(副料理長)に就任する。「ちゃんと結果を出せばそれに見合った評価をいただける。文化の異なるフランス人であっても、そのぐらいは日本人と同じはずだと思っていたんです」。
弱冠33歳でのミシュラン三ツ星獲得
現在の「カンテサンス」は、「アストランス」の影響を色濃く受けている。プロデュイ(素材)、キュイソン(火の入れ方)、アセゾネ(味付け)の徹底的な追求。低温長時間ローストという独特の火入れ法。これらは日本の食通たちに新鮮な驚きを持って迎え入れられた。帰国後、2006年5月に白金台で「カンテサンス」をオープンしたとき、岸田の生み出す料理はフレンチの新たな潮流として多くのメディアから注目された。
そして運命の2007年11月。「カンテサンス」はミシュラン三ツ星を獲得する。このとき、岸田は弱冠33歳。若きフレンチのカリスマが華々しく誕生した瞬間だった。
たくさんのスターシェフが生まれては消えていく
あれから8年。「カンテサンス」は毎年ミシュランで三ツ星を獲得し続けている。これはレストラン業界においては奇跡ともいえる出来事だ。
業界の流行り廃りのスピードはめまぐるしい。予約がとれないことで話題の店でも、数年経てばふらりと訪問しても入店できるのが当たり前だったりする。ミシュランやメディアの力によって、たくさんのスターシェフが生まれては消えていく。
「アスリートだったら年齢とともに身体的な能力が低下するのはやむを得ないと思うんです。でも、料理の世界はそういうのがないはずじゃないですか。継続することで技術はむしろ向上するはずなのに、なんでそういうことが起こるんだろう、と」。ミシュランで星を獲得し続ける中、岸田はこうした疑問を抱くようになる。
いったんは成功を収めたレストランがなぜ失敗して消えていくのか。岸田は気がついた。「ある程度人気が出て予約が取れないとなると、2店舗目を出す人はたくさんいる。他にも、例えばお店を拡張したりとか、価格帯を変えたりとか。シェフの技術は高くても、そうした大きな転機を境にうまくいかなくなることが多いのではって。」。
「お客さんが来て当たり前、という感覚を持つこと。僕にはそれがちょっと怖い」と岸田は言う。「こんなに頑張っているのになんでお客様が来ないんだろう、って悩みながら働いた経験が、僕にとってはすごく大きな財産になっているんです。今でも、ある日急にお客様が来なくなるんじゃないかという恐ろしさが常にある。だから、ここで僕がもうちょっとお金儲けをしようとか、2店舗目を作ろうとか、規模を大きくしようとかってやると、多分僕も同じ失敗をする。このことを、先輩たちの経験から学ばせていただいたんです」と岸田は神妙な面持ちで語る。
別に拡張することが悪いわけではない。でも、今の本業をおろそかにしてまでしてやるべきことではない。冷静沈着で奢らないメンタリティー。これが岸田がスターシェフで居続けられる理由なのかもしれない。
夢が具体的であれば、足りないものも見えてくる
奢らないメンタリティーは、経営者としての顔にも表れている。「あくまでもまずは職人としてのベースになるスキルをがむしゃらに磨く必要がある」そう前置きしたうえで、「ただ、料理の腕があればなんとかなるというのも危険すぎる」と示唆する。
「独立したい、自分のレストランを持ちたいという夢があるんだったら、当然、そこに対して必要なものが具体的になってくると思うんですよね。夢が具体的であればあるほど、足りないものも具体的になってくる。経営者としての能力、お金の知識。多くの場合、こうしたものが自分にないものとしてあるはずなんです」。
事実、白金台から御殿山へ移転をし、自らが理想とするレストランを実現する決心をした背景にも、経営者としてのお金の知識と判断があった。「キッチンの設備は大体5年で壊れ始めると言われているんです。特に繁盛店は老朽化が早く進む。2011年にオーナーになったとき、毎日、冷蔵庫だったりオーブンだったり何かしらをメンテナンスしなければならない状況で、そのコストもばかにならなかった。僕はいったいあと何年レストランをやるんだろう、と考えたら、途中で1回は何千万円というお金をかけてリノベーションをしなければならない。それなら、いっそ移転をして新品でスタートするのもありかな、と」。そんなふうに考えていたところに、御殿山の物件の話が舞い込んだ。
もちろん、お金だけが理由ではない。「1回しかない自分の料理人人生の中で、一度全力で勝負できるステージでやってみたいなっていう夢もありました」。
全力で勝負できる、自分にとって理想のレストラン。それを実現するために岸田が一番注力したのはキッチンだ。移転後、レストランの面積は白金台時代の約1.6倍に広がったが、席数は以前と同じ30席。増床部分の多くをキッチンが占めている。「料理人にとって、料理を生み出すキッチンこそが“職場”。朝から夜まで長時間篭もる場所だからこそ、徹底的にこだわりたかった」。これもまた、職人として料理と真摯に向き合おうとする岸田の流儀だ。
「お金は食材のようなもの」と岸田は言う。どんなに素晴らしい食材であっても、火入れの方法やお客様に提供するタイミングが間違っていたら、本来の魅力は引き出せない。食材の魅力を引き出せるかは、それを扱う人の腕にかかっているからだ。
どれだけの人が、帰り際に「次の予約をしたい」と言ってくれるか
キッチンこそが“職場”と断言するだけあって、岸田が接客のためにダイニングルームに滞在することはほとんどない。撮影のためにダイニングルームに足を運んでもらうと、「滅多に来ない場所だから、なんだか落ち着かない」と心許なげだ。なぜ普段、ダイニングルームに足を運ばないのかを問うと、「自分がお客様だったら、料理を放っておいて大丈夫なのか、と気になって仕方がないから」だと言う。言われてみればもっともである。
しかし、お客様が帰るときだけは例外だ。岸田は必ずエントランスまで見送りに出向く。
「今日のコースの中でこれが一番よかったっていう話とかを聞くんですけどね。自分の感覚ともすごく似ていて、やっぱりお客様はすごくわかっているんだなと毎回、実感しています」。
そして、見送りの際にもっとも気にしているのは、「次の予約をして帰るお客様がどれだけいるか」だという。「やはり日本人でストレートに自分の意見を言う人はあまりいない。内心はどうであれ、とりあえず、美味しかったよ、また来ます、と言ってはもらえます。でも、帰り道に何を話しているのか、本当のところはわからない。日々いろんなメディアで評価していただいて、お客様もここに来れば最高の料理が食べられるんでしょ、と期待値が上がっている。その期待以上のパフォーマンスがあって初めて感動がある。だから、次の予約を取りたいと言ってもらえたら、それが本当の自分への評価だと僕は思っているんです」。岸田は今日も、自分への評価をありのまま受け止めるために、帰り際のお客様をエントランスで待ち受ける。
子どもの頃から料理人を目指し、いつか自分の理想のお店を構えるということを今までずっと夢に見てきた。今、その夢を叶えた自分がここにいる。「夢が叶ったからこそ、ここから先はちょっと慎重にならなきゃいけない部分だな、と思いながらやってはいますね。瞬発的に頑張ることはできると思うんですけど、それを継続するのはすごく難しい。ちゃんと継続する。継続しながらも、ほんのちょっとかもしれないけど、常に成長している。そこらへんを今の目標にしようかなと思っています」。ただやっぱり大事なのは、今の仕事を疎かにしないということ。岸田はこの言葉にぐいと力を込めた。
冷静沈着で奢らないメンタリティー。この先、いくつ次なるSTAGEの扉を開けていったとしても、岸田の瞳に映っている景色は、よい意味で今と同じなのかもしれない。
「お金とは、食材のようなもの。(岸田周三)」