「そうすることが、妻と娘のためになるとその時は思えた」第16章[第32話]

元銀行員の男が起業をして、一時は成功の夢をつかみかけたが失敗する。男はなぜ自分が失敗したのか、その理由を、ジョーカーと名乗る怪しげな老人から教わっていく。”ファイナンシャルアカデミー代表”泉正人が贈る、お金と人間の再生の物語。

2018.2.16
平成23年11月11日23時
「君が冒した過ちは、何かわかるかい?」
「クリームおにぎりの人気がまだまだ続くと過信したことですか?」
「まあ、それもあるだろう……、君は不運だった。
しかし、本当の過ちは、他にいくつもある。まず君は己れを過信しすぎた。
お金の鏡が映し出した君の本当の姿は、まだその段階ではなかった。お金の大きなエネルギーを間違った方向に使ってしまった。拡大か継続か、自らその選択肢を狭めてしまった。タイミングも間違えた。モノの価値を見誤った。あえて詳しい説明をするまでもないだろう。君がやった唯一の良いことは、失敗を恐れなかったことくらいだ」
「僕が大谷を許せないのは、あのタイミングでなぜ折れてくれなかったか、ということでした。コンビニとのコラボの件で、あいつにわだかまりが残っているのはわかっていましたが、僕は経営者として正しい判断をしたと思っています」
「他人のせいにしては問題は解決しない。彼は投資家としてのルールに則ったのだろう。売り上げの五%をもらう約束をした時点で、彼の中では米角から気持ちは引いていた。大谷くんという男を調べさせてもらったよ。彼は、やっぱり、事業家というより、起業コンサルどまりということさ。重要な決断はすべて君に任せていた」
「でも、職業柄あいつの周りには、起業希望者は山ほどいるのに。なぜ僕をわざわざ選んだんだろう?」
「彼は彼なりに経営者としての資質を君に見ていたんだろう。多くの起業希望者は君ほど素直でもなければ、真面目でもない。君と同じさ。間近で起業する人間を見ていると自分ならもっとうまくやるのに!という思いを捨てきれなかった。だけど、君と一緒にやるうちに自分の限界のようなものを悟る瞬間があったんだろう。本当のところは彼に聞いてみないとわからないがね」
 本当に大変な時期、僕の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
 店を閉めることに決めた半年間は、寝る暇もなく、ずっとM駅前店に泊まり込んで、帳簿とキャッシュフロー表とにらみ合っていた。
 唯一、仕事以外のことで覚えているのは、妻が出て行ったことだ。
 良くないことは続くもので、娘の愛子の具合がこの頃、急激に悪くなっていた。
 妻とは米角がうまくいかなくなってから喧嘩が絶えることがなかった。
 当たり前だ。僕は約束を破って、借金を抱え、さらには、事業の存続が危うい状態で、毎月綱渡りのようなことを続けていたのだから。
「あなたは愛子のことどう思ってるの!自分の子供なのに可愛くないの!」
「そんなわけないだろう。だけど、今はしょうがないんだ。今だけ、ガマンしてくれ」
「あなたはいつもそう。自分のことばかり優先して、今、今、今、毎回その場しのぎじゃない」
「なんだよ、その言い方は!本当なら、今、俺の方こそ支えて欲しいんだ。自分ばかりはどっちのいい草だよ」
「私は自分のことなんて、これっぽっちも言ってない。愛子のことをどう考えているの?あの子は病気なのよ!」
「わかってる、わかってる!」
 愛子は、やがて入院しました。やはり病状は芳しくなかったのです。
 それでも僕は日々の仕事に忙殺されていました。
 明日こそは、明日こそは、娘・愛子の病院に行こうと思ったけれど、それでも一日が終わるころには本当にくたくたで、自分の娘なのに何もしてやれない日が続いたある日、妻の方からM駅前店に訪ねてきました。
 こんなことは二年半の間に初めてのことでした。
「私たち、もう別れましょう」
 妻の手には、離婚届が握られていました。僕はもう彼女に対して反論する気力もなく、求められるままに離婚届に判を押すことにしました。
 そうすることが、妻と娘のためになるとその時は思えたのです。
(毎週金曜、7時更新)
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