カタカナ言葉を減らして美しい日本語を使おう

幸せ自作人こと島津信枝です。最近カタカナの言葉が増えていると思いませんか。また曖昧な表現も増えているように感じます。カタカナは本来外来語で日本語にしづらい言葉に対して用いられていましたが、最近は日本語に同じ意味の言葉がある場合もカタカナで表記することがあります。

私の気になるカタカナ言葉の一つに「クレーム」があります。例えば「クレームをつける」とか「彼はクレーマーだ」など。

どうして分かりやすい日本語で「苦情をいう」という言葉を使わないのでしょうか。

また、間違った使い方をしている場合もあります。
例えば英語のclaimは「要求する、主張する」という意味を持っていますが、苦情を言うという場合はcomplainを使います。
”He complained that he was ill-treated.” など。

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曖昧な言葉の表現

また曖昧に物事を言うことも増えてきているようです。

例えば「海外に行きたいんだけど、夫とかが反対するのよ」。
「夫とか」というと他にも反対している人がいるような感じですが、実は夫だけ反対しているのを角が立たないように(?)曖昧に表現しています。「夫が反対」または「夫や娘が反対」などの表現の方がはっきりして分かりやすいと思います。

同じような曖昧表現として「みたい」をよく使う人もいます。
例えば「今日は学校休むみたい」など。
これでは休むのか休まないのかはっきりしませんよね。一体誰が休むのかも分かりません。

その他にも時々聞くことがあって違和感を覚えるのは「私的には(わたしてきには)」です。初めて聞いたときは何の事か理解出来ませんでした。「私は」とした方がすっきりします。

こんな調子で日本語が変わってきています。

曖昧なカタカナ言葉が増える事によるリスク

パソコンの説明となるとカタカナばかりです。取り扱い説明書など外国語を見ているように感じることもあります。

外国から入って来た道具だから面倒な翻訳をせずにそのままカタカナ英語を使っているのかもしれません。

でも「日本語で同じ事をもっとはっきり言えるのに」と思うのは年配者のひがみでしょうか。

言葉は時代と共に変化すると言われていますが、曖昧な言葉を使っていると意志疎通も曖昧になり、大事なこともいい加減に判断するようになってしまのではと危機感を覚えます。

出来るだけカタカナ言葉を減らして日本語で意思伝達をするように心掛ければ、美しい日本語が甦るのではないでしょうか。

曖昧な日本語を使っていると精神構造も脆弱になってしまうとも聞きましたので、日頃から明瞭な日本語を意識して使いたいものです。

では 今日はこの辺で。

【前回の記事はこちら】
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