井伊直弼は、もはや表舞台には立つ事なくその一生を「埋木舎」で朽ち果てることを諦観しつつも、日々研鑽・修養を積み重ね前向きに生き抜くことを歌で認(したた)めました。
「埋木舎」に戻った井伊直弼は、「予は一日に二時(にとき:四時間)眠れば足る」と言って、文武諸芸の自己修練に精進しました。その結果を見ると、
・ 禅学―仙英禅師の印可証明(いんかしょうみょう:悟りの域に達している証明)を受ける
・ 居合―「神心流」を創設し、「神心流柔居相秘伝書」など著す
・ 兵学―山鹿流兵学の伝授書を師・西村台四郎から受ける
・ 茶道―石洲流で一派を立て、「茶湯一会集」を著す
・ 国学―国学者・長野義言(ながのよしとき)に師事する
・ 居合―「神心流」を創設し、「神心流柔居相秘伝書」など著す
・ 兵学―山鹿流兵学の伝授書を師・西村台四郎から受ける
・ 茶道―石洲流で一派を立て、「茶湯一会集」を著す
・ 国学―国学者・長野義言(ながのよしとき)に師事する
など一通りの修養の域を超えたものばかりで、この修養が後の井伊大老の英傑としての素地を形成していきました。
(2)運命の皮肉―彦根藩主となった井伊直弼
井伊直弼の不遇時代は、弘化三年(1846年)藩主直亮の跡継ぎ・直元の急逝により終わりを告げます。
他の兄弟は既に養子に出たり早逝しており、残っていた井伊直弼は、32歳で当主・直亮の養嗣子に迎えられました。
井伊直弼はこの運命の皮肉について、老臣・犬塚正陽宛の書状の中で、「尋常のことではない。どのようにしても世に出ることのあり得ない身の不思議な昇身」と驚きを隠せません。
歴史の表舞台に立つ井伊直弼
井伊直弼は、嘉永三年(1850年)に彦根藩主として家督を継ぎ、安政五年(1858年)には譜代大名筆頭として大老職に就任しました。運命の皮肉で家督を継いだ井伊直弼でしたが、修養を積んでいた井伊直弼にとって荷が重すぎるものではありませんでした。
(1)善政を敷いた井伊直弼
家督を継いだ井伊直弼は、先君・直亮の遺金分配名下に金十五万両を領内の士民に分配しました。この遺金を自由に差配できる立場であったのにもかかわらず、井伊直弼はあえてこれを私することはありませんでした。
尊攘派志士として立場が異なっていた吉田松陰も、その起稿文「囚室臆度」で井伊直弼のこの初政を高く評価し直弼を「仁厚の長者」と尊称しています。