実は浪費家ではなかった? マリー・アントワネットのお金の真実

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なぜか、誤解ばかり受ける女性がいる。フランス王妃マリー・アントワネットは、生きている間もそうだったが、死んでからも自分が言ったセリフではない「パンがなければ、ケーキ(orブリオッシュ)を食べればいいじゃない」という自由奔放な言葉が一人歩きをして、彼女の評判を死後も貶められていました。ようやく近年になって、このセリフの出典が彼女ではないという事実が一般層にも広まってきています。

2017.10.16

イメージは最悪 無駄遣いの女王

彼女はオーストリアの名門ハプスブルグ家の生まれです。
女王マリア・テレジアの娘として幼年期をウィーンで何不自由なく過ごし、15歳のときに、のちのルイ16世の元に輿入れをしました。

まだ、フランスのパリが花の都と称せられるずっと前の話で、神聖ローマ帝国時代から隆盛を極める名門のハプスブルグ家からフランスのブルボン家への輿入れは政略結婚の要素がとても強いものでした。

この時代の話は『ベルサイユのバラ』などの芸術作品でも取り上げられることも多いので、ご存知の方も多いと思いますが、強大な権力の周りというのは、多くの人間の思惑が錯綜して、思わぬトラブルや誹りを受けやすくなるものです。

彼女の負のイメージは、彼女の登場を快く思わない多くの人たちが広めたようです。金遣いが荒いというイメージは、当時のフランス人にとってのハプスブルグ家という歴史と格式ある名門に対して持っていたイメージを彼女に押し付けた感があります。

革命前から横行したレッテル貼り

彼女が登場する以前に、宮廷を牛耳っていたのはデュ・バリー夫人というルイ15世の愛人でした。彼女とその取り巻きは、宮廷内の新興勢力であるマリー・アントワネットたちと、ことごとくソリが合わなかったようです。
しかし、むべなるかな、時代が流れれば、やがてはマリー・アントワネットは王妃となる身です。味方となる貴族も多く、ルイ15世の崩御とともに、宮廷内で力を得ていったのです。

彼女がフランス王妃となったのち、フランス王宮内でそれまでの行われていた慣習を次々とあらためていきました。朝の接見の簡素化や、王室への直接プレゼントを渡すことをやめさせたりしました(賄賂の禁止)。

しかし、これらの改革は、ベルサイユ内で波紋を呼びます。いくら無駄とわかっていても、それでステータスを得ていた旧来の貴族にとっては、自分たちの存在意義を奪われたも同然だと考えました。彼らは表立って抗議することはありませんでしたが、アントワネットの醜聞なら喜んで広めました。

それが、スウェーデン貴族のフェルゼンとの浮名であり、一大スキャンダルとなった詐欺事件である「首飾り事件」でした。

首飾り事件の顛末

首飾り事件は、ある宝石商が作った宝石を、自称貴族の怪しげな女性が宮廷司祭長であったロアン枢機卿に「アントワネットの代わりに代理購入しないか?」と持ちかけたことがきっかけでした。
彼女はアントワネットと特別な関係で、アントワネットにこの宝石を渡せば、あなたの出世を約束してあげると伝えたのでした。

当時、直接王室へのプレゼントを禁止されていたので、王室に取り入る機会を狙っていたロアン枢機卿は、ぜひとばかりに宝石の代金をその怪しげな女性に渡して、宝石の代理購入をします。宝石商にも王妃に届けた後で代金を支払うと言って、女性はまんまと代金と宝石の両方を手に入れたのでした。

事件は、宝石商の訴えで発覚します。待てど暮らせど代金が支払われないことに業を煮やした宝石商が、アントワネットの側近に訴えたのでした。

この事件そのものは、自称貴族の怪しげな女性を逮捕、罰することで、すぐに解決しましたが、マリー・アントワネットにはこうした醜聞のイメージがついてまわりました。

実際、この事件とマリー・アントワネットとの関係はまったくないですが、詐欺を働いた女性とのレズビアンの関係があるなど事実無根な噂をたてられたり、もともと豪華な首飾りを欲しがる王妃に問題があり、この事件は、王妃の陰謀であるなどと勝手な噂を立てられました。
(この詐欺を行った怪しげな女性はのちに事実無根な噂をもとに、マリー・アントワネットと自分のレズビアンな関係を告白し出版しました。当時の出版事情を考えると、この事件への一般民衆の関心の高さがわかります。)

国民の反感の象徴的存在へ

この事件の社会的影響は大きく、重税に苦しむフランス国民の耳目を大きく刺激しました。やがて、不満は怒りへと変わり、革命の原動力へとなっていきます。しかし、本当のところ、フランス国民を苦しめていたのは、維持費のかかるベルサイユ宮殿を建てたルイ14世や、無駄な外征(アメリカ独立戦争)を行ったルイ15世だったはずです。しかし、彼女は外国人で華やかに目立っていて、わかりやすく標的になりやすかったのです。

フランス革命が行われる100年前には、国家財政の3分の1が王室費として使われていましたが、マリー・アントワネットの時代には、国家財政の6%以下にまで減っていたと一説ではいわれます。

革命後のマリー・アントワネット

革命後、アントワネットは裁判を受けることになります。周りはすべて自分の敵という状況のなかでも、彼女は気丈に振る舞ったと言われています。

ここでも、まるでいつものことのように事実無根な醜聞を突きつけられます。極め付けは「自分の子供であるルイ17世に性的虐待を行った」という訴えでしたが、これに対して、マリー・アントワネットは裁判の傍聴席にいたすべての女性に対して無実を主張して、大きな共感を呼び、さすがにこの訴えは取り下げられることなりました。

しかし、国民感情はどうしても彼女に罪を背負わせたかったのでしょう。昔、彼女が起こしたといわれる醜聞も彼女の足を引っ張ったと言われています。彼女は2カ月の裁判の後、死刑判決を受けました。

アントワネットは、義理の妹に対して遺書を書き送りました。その中にはこのような一説がありました。
「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものでした。

アントワネットは、時代の大きなうねりの犠牲になった悲劇の女性です。彼女は誤解と醜聞のなかで、死んだ後も存在し続けています。後世の私たちが彼女の本当の姿を知ることは難しいですが、彼女にまつわる芸術作品は今でも多く作られています。決して真実が明らかになることはないですが、私たちは醜聞に彩られた彼女の人生を見つめ直す必要があるかもしれませんね。