2016.4.18
最高峰のエンターテインメントが結集し、大小さまざまな劇場がひしめくニューヨーク・ブロードウェイ。42丁目に演劇プロデューサー・出口最一(でぐちまこと)のSTAGE(舞台)がある。
日本人であるということ、アジア人であるということがハンデになる厳しい世界。出口はそこで、自らの理想を追い求め、劇場を訪れたすべての人に感動を与えるために孤高の闘いに挑み続けている。
出口を世界の舞台で闘えるまでに導いたものとは一体何なのか。そしてここからどこへ向かうのか。その舞台裏の真髄に迫る。
日本人であるということ、アジア人であるということがハンデになる厳しい世界。出口はそこで、自らの理想を追い求め、劇場を訪れたすべての人に感動を与えるために孤高の闘いに挑み続けている。
出口を世界の舞台で闘えるまでに導いたものとは一体何なのか。そしてここからどこへ向かうのか。その舞台裏の真髄に迫る。
■二十歳の決意がいまも延々と続いているんです
出口の芸術に対する感性には、並々ならぬものがある。幼い頃から絶対音感があり、誰に教わるともなく、気づけば楽譜を読めたり曲を書いたりできる子どもだった。そして高校時代、その類まれな音楽的な感性と、ひとつのミュージカルとが運命的な出逢いを果たす。
「自分の人生のゴールがわからなくなって、暗い青春期を送っていたんです。そんなときに、偶然観た1本のミュージカルがパッと目を開かせてくれた。それが『サウンド・オブ・ミュージック』だったんですよ」。国境を超えた、音楽を魅せ、ストーリーを魅せ、踊りを魅せるエンターテインメント。感動で震えた。「どうにかしてこの世界に入りたい」。こうして出口の人生のSTAGE(舞台)の幕は切って落とされた。
「自分の人生のゴールがわからなくなって、暗い青春期を送っていたんです。そんなときに、偶然観た1本のミュージカルがパッと目を開かせてくれた。それが『サウンド・オブ・ミュージック』だったんですよ」。国境を超えた、音楽を魅せ、ストーリーを魅せ、踊りを魅せるエンターテインメント。感動で震えた。「どうにかしてこの世界に入りたい」。こうして出口の人生のSTAGE(舞台)の幕は切って落とされた。
高校卒業後、出口は外国語大学でフランス語を専攻する傍ら、オーディションを受け、国内最高峰の劇団である「劇団四季」に入る。そこでのトレーニングは厳しかった。台詞の練習に踊りの練習。踊りといってもジャズダンスだけではない。バレエもやった。「タイツを履けって言われて戸惑いましたけどね」。
そこでの経験が積み重なり、大学3年の夏、出口は東宝ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』への出演のチャンスを掴む。ここで、出口を「一生この世界でやっていこう」と決意させた瞬間があった。「それは二十歳の誕生日でしたね。『マイ・フェア・レディ』は当時、主役だった女優の栗原小巻さんが、隣にいる僕を見ているストップモーションで始まるんですが、『今日、僕、二十歳の誕生日なんです』と言ったら、『あ、おめでとう、あとで楽屋に来なさいね』って。その瞬間に幕がスッと開いたんですよね。あとで楽屋にお邪魔したら、『頑張ってね』とか、おめでとう、とかいろいろ書かれた色紙をいただいて」。その瞬間に「あぁ、これを一生の仕事にしたいな」と思った。その気持ちが今もなお、延々と続いているという。
そこでの経験が積み重なり、大学3年の夏、出口は東宝ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』への出演のチャンスを掴む。ここで、出口を「一生この世界でやっていこう」と決意させた瞬間があった。「それは二十歳の誕生日でしたね。『マイ・フェア・レディ』は当時、主役だった女優の栗原小巻さんが、隣にいる僕を見ているストップモーションで始まるんですが、『今日、僕、二十歳の誕生日なんです』と言ったら、『あ、おめでとう、あとで楽屋に来なさいね』って。その瞬間に幕がスッと開いたんですよね。あとで楽屋にお邪魔したら、『頑張ってね』とか、おめでとう、とかいろいろ書かれた色紙をいただいて」。その瞬間に「あぁ、これを一生の仕事にしたいな」と思った。その気持ちが今もなお、延々と続いているという。
■『エンパイア・ステート・ビル』があんなに高い理由
1987年、出口は「劇団四季」を退団し、単身ニューヨークへわたる。「劇団四季に入っていろいろミュージカルをやらせていただくなかで、やっぱり本当のものをやってみたいと思うようになった。ブロードウェイ・ミュージカルを日本人が日本語で演るという環境は、何かを作り出すより、何かを探している世界だとわかったんです。それならば本場で学ぶ方が絶対にいいと思ってニューヨーク行きを決めました」。
「アメリカといっても色々な都市がありますが、とにかくニューヨークという街は特殊。自分が何をしたいのかというビジョンをしっかり持っていないとだめなんです」。そう出口は語気を強めた。「絶対にここでやっていくんだって覚悟してグリップをしっかり握っておかないと、弾き飛ばされます。本当にスピンが速いので」。2〜3年したら「もうここは合わない」と言って帰る人は、アメリカ人でも後を絶たないという。
「まぁ、でもそこがあってのニューヨークなんでしょうけれども」。出口はそういって屈託なく笑った。「僕はね、あの『エンパイア・ステート・ビル』があんなに高いのはなぜかと言ったら、自我がしっかりしていて、根がしっかり張っていて、自己主張が強いから。だからこそニューヨークの象徴なんだと思ってるんです」。実に出口らしい、見事な推察だ。
「アメリカといっても色々な都市がありますが、とにかくニューヨークという街は特殊。自分が何をしたいのかというビジョンをしっかり持っていないとだめなんです」。そう出口は語気を強めた。「絶対にここでやっていくんだって覚悟してグリップをしっかり握っておかないと、弾き飛ばされます。本当にスピンが速いので」。2〜3年したら「もうここは合わない」と言って帰る人は、アメリカ人でも後を絶たないという。
「まぁ、でもそこがあってのニューヨークなんでしょうけれども」。出口はそういって屈託なく笑った。「僕はね、あの『エンパイア・ステート・ビル』があんなに高いのはなぜかと言ったら、自我がしっかりしていて、根がしっかり張っていて、自己主張が強いから。だからこそニューヨークの象徴なんだと思ってるんです」。実に出口らしい、見事な推察だ。
■「BLUE MAN」との出逢い
演劇界で出口を世界的に有名にしたのが、今も世界中で爆発的な人気を誇る「BLUE MAN GROUP: TUBES」だ。1991年、ニューヨークの劇団で演出助手をしていたときに、当時無名だった「BLUE MAN」に出逢った。その名の通り、顔を真っ青に塗った「BLUE MAN」が、リズムに乗りながら様々なパフォーマンスを展開する。彼らのショーを観たことがある人は、その唯一無二の世界観に圧倒されたに違いない。
出口も例外ではなかった。「初めて観たときは、これはすごいと度肝を抜かれましたね」。そして、「プロデューサーをさせてくれないか」と申し入れ、友人と二人で「BLUE MAN GROUP: TUBES」としてのプロジェクトを立ち上げた。
ニューヨークの路上でストリート・パフォーマンスを行っていた「BLUE MAN」は、その後、出口の卓越した芸術的感性とプロデュース力によって、国境を超えたエンターテインメントへと脱皮することになる。「これをとにかく世界に有名にしたいっていう気持ちがあって。それで一生懸命やったら、そういうふうになっていったんです」。「BLUE MAN GROUP」は、プロジェクト立ち上げから24年が経った今もなお、アメリカ全土のみならず世界中で公演を行い、人々に愛され続けている。
出口も例外ではなかった。「初めて観たときは、これはすごいと度肝を抜かれましたね」。そして、「プロデューサーをさせてくれないか」と申し入れ、友人と二人で「BLUE MAN GROUP: TUBES」としてのプロジェクトを立ち上げた。
ニューヨークの路上でストリート・パフォーマンスを行っていた「BLUE MAN」は、その後、出口の卓越した芸術的感性とプロデュース力によって、国境を超えたエンターテインメントへと脱皮することになる。「これをとにかく世界に有名にしたいっていう気持ちがあって。それで一生懸命やったら、そういうふうになっていったんです」。「BLUE MAN GROUP」は、プロジェクト立ち上げから24年が経った今もなお、アメリカ全土のみならず世界中で公演を行い、人々に愛され続けている。
■構想17年のスペクタクルミュージカル『TRIP OF LOVE』
日本料理で世界のセレブを魅了する、アメリカンドリームの体現者(森本 正治)

アメリカでは、その名を知らない人はいない。かつて一世を風靡したテレビ番組「料理の鉄人」や、そのアメリカ版 「Iron Chef America」にも登場し……
出口最一さんの記事に興味がある人におすすめ