実は絶世の美女ではなかった? 楊貴妃の美貌の真実

生き方
古代エジプトのクレオパトラ、日本古代の小野小町と並んで世界の三大美女の1人として有名な楊貴妃は、美人だからというよりも才智や聡明さで玄宗皇帝の心をわしづかみにしていたとされています。では、楊貴妃の美女伝説はどのようにして生まれたのでしょうか。
2018.9.19

美女伝説はこうして生まれた!

楊貴妃の本名は楊玉環(ようぎょくかん)で、719年に中国唐の小役人の娘として生まれました。
17歳の時、同じ年齢の寿王(じゅおう)と結婚しますが、寿王の父親である玄宗皇帝に気に入られ、息子から強引に取り上げてしまいます。
ただ、世間体がありますので、楊貴妃は道教の尼として5年過ごし、5年後に皇妃として迎え入れられました。
玄宗は楊貴妃を溺愛し、政治にあたるという職務をすっかりしなくなったといわれています。楊貴妃の服装やアクセサリーを作成する技術者を何百人も雇ったり、楊貴妃の好物であるライチを中国南部から早馬を飛ばして取り寄せたりした、というエピソードは有名です。
さらに、楊貴妃の親族を高位高官にしたという話も伝わっています。

楊貴妃はふくよかだった?!

最近の中国の情報(中国のWEBメディア:四川在綫)によれば、楊貴妃はとてもふくよかな人で、身長164 cm 、体重は約70キロあったといわれています。
当時の画家・周の「貴妃出浴図」を見ると、ふっくらとしていてグラマーな体型であることがわかります。
また、中国唐の唐代の詩人、白楽天によって作られた長編の漢詩「長恨歌」に「温泉の水滑らかにして凝脂を洗う」という言葉からも楊貴妃がむっちりとした白い肌の持ち主だったことが分かります。
なぜ唐代に太っていた女性がもてはやされたかといいますと、唐の時代は満足に食が取れない人々がたくさんいて、ふっくら系は憧れでした。
そのため、ふくよかな楊貴妃が玄宗皇帝から歓迎され、寵愛を受けたのも不思議ではありません。

本当は聡明な楊貴妃

楊貴妃はマリリン・モンローのように表情に乏しく、知性の感じられない美貌だったという説がありますが、頭の悪い女性ではなく才智にとんでいる利口な人だといわれています。
玄宗と何回か喧嘩をして、楊貴妃は楊家に返されてしまった時に、楊貴妃は手紙を書きます。
「私がしたことは死に値します。皇帝陛下からいただいたものは、すべて皇帝陛下のものです。私が持っているものは親から産んでもらった髪の毛だけです。その髪の毛を手紙に同封します」
これの機転が利いた手紙を読んだ玄宗は驚いて、すぐに楊家から楊貴妃を呼び戻し、それ以降はむしろ愛情が深まったそうです。
また、玄宗の道教好きは有名で、道教の書物に自ら注釈を加えるほどでした。
道教には神仙思想(不老長寿の人間である仙人の実在を信じて、みずからも仙人になることを目指す思想)が含まれています。
神仙になるために生薬を必要としますが、楊貴妃は生薬の知識を持っていたといいます。
楊貴妃と玄宗は神仙思想について語り合ったことがあるほか、美容と健康に良いとされている「はと麦」「燕の巣」「冬虫夏草」などを摂っていたとも伝えられています。
道教の尼としての経験から、話が合うというのも、楊貴妃が愛された理由と思われます。
後宮には、おそらく玄宗から見て綺麗な女性は多くいたかもしれませんが、話し相手になる女性は楊貴妃ぐらいのものだったのではないでしょうか。
また、音楽や踊りの能力も優れており、玄宗が「霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)」という曲を作ったところ、楊貴妃が直ちに踊ったというエピソードがあります。
楊貴妃は38歳という若さで亡くなるまで、時の最高権力者から16年間寵愛され、さらに、死後は世界的な有名人になりました。
もしも楊貴妃の最初の夫である寿王が皇太子になっていれば、貴妃という皇后の次に高い2番目の地位ではなく、皇后の位が与えられて天寿を全うしていたかもしれません。
玄宗から愛される聡明さや能力があったからこそ、世界の三代美女として歴史に名を残したのです。

三浦悦子

雑誌記者を経て、現在書籍のライターとして活動。主に、経済界、民間信仰関係の書籍を出版。

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