幕末の英傑・井伊直弼には報われない「世捨て人」時代があった

生き方
幕末の混乱期に、幕府大老として開国を断行し「安政の大獄」で大粛清した井伊直弼ですが、その前半生の大半が、実は「世捨て人」の身であったことは余り知られていません。その生き様から何を学んでいったのか、その軌跡を辿ってみましょう。

世捨て人・井伊直弼の生き様を検証する

江戸幕府大老であった井伊直弼は幕末の混乱期を取り仕切った英傑ですが、その活動を支えたのが世捨て人として過ごしたその前半生で培った「自己修養(学問を修め精神を磨き、人格を高める)」の賜であったと言えます。

(1)井伊直弼の出自 ― 用済み人間だった十四男坊

井伊直弼は、文化一二年(1815年)に十一代彦根藩主・井伊直中の十四男として彦根城に生まれました。出自としては庶子(側室の子)であり世継ぎとなる可能性がある兄弟も多く、万が一の安全牌(藩主の後継者)としての稀少性は低いものでした。
不幸なことに井伊直弼が出生した時点で、藩主の家督は兄・直亮が相続していて、その人間的存在価値(安全牌)はほとんど霧消し、単なる用済み人間となっていました。

(2)井伊直弼の不遇時代 ―「埋木舎(うもれぎのや)」の日々

天保二年(1831年)父・直中の逝去に伴い、井伊直弼は彦根藩の「庶子養育制度」に従い、藩から米三百俵の「捨て扶持(役に立たない者に与える扶持米)」を与えられ、尾末町の藩御用屋敷に居を定めました。他家や家臣の養子にも行かない庶子はわずかな「捨て扶持」を与えられ質素な一生を送るしかありませんでした。
このような井伊直弼にも不遇の身から抜け出すチャンスがありました。天保五年(1834年)藩主・直亮のはからいで、井伊直弼は弟・直恭とともに他家の大名の養子候補として江戸に向かいました。
しかし、この幸運をつかんだのは弟・直恭でした。直恭は日向延岡藩主・内藤政順(まさより)の養子となり家督を継いで一躍七万石の城主となりました。
井伊直弼は他の養子縁組口を期待していましたが思い叶わず、失意のうちに江戸藩邸で一年間虚しく過ごした後、彦根に戻りました。

苦節32年に耐えた井伊直弼

尾末町の藩御用屋敷に戻った井伊直弼は、心境を歌で詠み、その陋屋(ろうおく)を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は(意訳:世捨て人のような身の上であるが、このまま埋もれていないなどと言わず、自然体で生きていきたいものだ)」

(1)心折れることなく4時間睡眠で武芸・学問に励んだ井伊直弼

井伊直弼は、もはや表舞台には立つ事なくその一生を「埋木舎」で朽ち果てることを諦観しつつも、日々研鑽・修養を積み重ね前向きに生き抜くことを歌で認(したた)めました。
「埋木舎」に戻った井伊直弼は、「予は一日に二時(にとき:四時間)眠れば足る」と言って、文武諸芸の自己修練に精進しました。その結果を見ると、
・ 禅学―仙英禅師の印可証明(いんかしょうみょう:悟りの域に達している証明)を受ける
・ 居合―「神心流」を創設し、「神心流柔居相秘伝書」など著す
・ 兵学―山鹿流兵学の伝授書を師・西村台四郎から受ける
・ 茶道―石洲流で一派を立て、「茶湯一会集」を著す
・ 国学―国学者・長野義言(ながのよしとき)に師事する
など一通りの修養の域を超えたものばかりで、この修養が後の井伊大老の英傑としての素地を形成していきました。

(2)運命の皮肉―彦根藩主となった井伊直弼

井伊直弼の不遇時代は、弘化三年(1846年)藩主直亮の跡継ぎ・直元の急逝により終わりを告げます。
他の兄弟は既に養子に出たり早逝しており、残っていた井伊直弼は、32歳で当主・直亮の養嗣子に迎えられました。
井伊直弼はこの運命の皮肉について、老臣・犬塚正陽宛の書状の中で、「尋常のことではない。どのようにしても世に出ることのあり得ない身の不思議な昇身」と驚きを隠せません。

歴史の表舞台に立つ井伊直弼

井伊直弼は、嘉永三年(1850年)に彦根藩主として家督を継ぎ、安政五年(1858年)には譜代大名筆頭として大老職に就任しました。運命の皮肉で家督を継いだ井伊直弼でしたが、修養を積んでいた井伊直弼にとって荷が重すぎるものではありませんでした。

(1)善政を敷いた井伊直弼

家督を継いだ井伊直弼は、先君・直亮の遺金分配名下に金十五万両を領内の士民に分配しました。この遺金を自由に差配できる立場であったのにもかかわらず、井伊直弼はあえてこれを私することはありませんでした。
尊攘派志士として立場が異なっていた吉田松陰も、その起稿文「囚室臆度」で井伊直弼のこの初政を高く評価し直弼を「仁厚の長者」と尊称しています。

(2)幕末の混乱期に立ち向かった井伊直弼

このころの日本は嘉永六年(1853年)のペリー来航以後、開国の賛否と将軍継嗣問題で混乱していて、英明なリーダーであった井伊直弼はその難局に死をも辞さない覚悟で臨みました。安政五年(1858年)、幕府からの「御用召(大老職就任の出頭命令」をうけた井伊直弼は側近
の宇津木景福に「時節といい、大任といい、恐れ入る」とその覚悟を披瀝しています。
大老職に就任した井伊直弼は、剛毅果断に開国を断行し、また「安政の大獄」で尊攘運動派を大粛清しました。これはある意味「国家大厄難」にあった日本を救うための不可避な選択であったのかも知れません。

井伊直弼の生き様から学ぶべきこと

井伊直弼の前半生は世捨て人の立場でしたが、置かれた環境や境遇のなかで世捨て人として自己否定の烙印を押すことなく、日々を自然体で生きていきました。
あるがままにして作為しない日々の繰り返しが井伊直弼の人をつくり、人間としての幅を広げていったのです。
井伊直弼の生き様は、私たち市井人にとっても「自己修養(学問を修め精神を磨き、人格を高める)」の大切さを教えてくれます。

【参考文献】
吉田常吉「井伊直弼」(吉川弘文館)、山口宗之「井伊直弼」(ペリカン社)、母利美和「井伊直弼」(吉川弘文館)、大久保治男「埋木舎と井伊直弼」(サンライズ出版)

熱野屋與三兵衛

長く生きていれば失うものが多い齢となりましたが、人としての習練もまだ道半ば、青山の遠きを長嘆息している今日この頃です。

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