2018.3.3
徳川家康とは何をした人物?
徳川家康は戦国時代をコツコツと生き抜いた人物です。天文11年12月26日(1543年1月31日)に生まれ、織田信長や豊臣秀吉といったトップとかかわりました。のちに戦国の世を終わらせたことで知られています。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)に行われた関が原の戦いに勝利したことでその功績を認められ朝廷から征夷大将軍の地位を得たのち、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開き数々の経済政策を行ったのです。
何かと落ち着きのない幼少期
幼少期の家康(竹千代)が生まれた三河国は、敵国からの総攻撃を危惧していました。三河国は織田と今川に挟まれる形で存在していて、いつ攻撃されてもおかしくなかったからです。
そんなおり織田からの総攻撃の知らせを受けた父弘忠は、今川に協力してもらう代わりに当時6歳であった家康を人質として差し出します。
その後仲間の裏切りによって織田に売り飛ばされ今川にて再び人質になるなど、波乱万丈の幼少期を送るのです。大名たちの家で人質になることで、それぞれの家の事情を垣間見た家康。
このときの経験がのちに、彼の生き方に大きく影響したのではないでしょうか。
徳川家康は徹底した倹約家
あまり知られていない家康の特徴として、倹約家ぶりが挙げられます。人質生活の中で人生はいつどうなるか分からないと学んだであろう家康が、お金のことにシビアになるのはある意味当然といえるでしょう。
粗食である麦飯を食べていた
現在では白米よりも手に入れにくい麦飯ですが当時は粗食として扱われ、立場のある人が食べるものではありませんでした。家康はあえて安く手に入る麦飯を食べ、倹約に勤めていたのです。
これに関しては家康自身「戦場の兵に申し訳ないから食べている」といっていますが、数々のエピソードを考えるとやはり倹約のためだったのではないかと考えられます。
古い足袋を捨てない
足を守る足袋は汚れるものですが、家康は征夷大将軍なったのちも古い足袋を捨てずにとっていました。
足袋などは簡単に買えるものですが倹約家である家康にとって、古くなったとはいえまだ使える足袋を捨てるのは苦痛だったのでしょう。
黄色い褌の採用
兵たちに支給する褌は汚れが取れなくなってくると、捨てられてきました。家康はそこに目を付け、黄色い褌を採用したのです。黄色い褌であれば汚れが目立ちにくく、長く使用していくことができます。
下着は捨てるものという概念から飛び出して、どうしたら長く使うことができるのか?を考えた家康の視点は、物事を違う方向から見ることの大切さを教えてくれます。
徳川家康は蓄えたお金をどう利用したのか?
徳川家康は三河の矢作川にかかっていた橋が決壊したおり安く準備に時間もかからない渡し船を使うではなく、お金や時間を浪費する橋の修復を命じました。
常日頃、倹約に勤めていた彼に似合わないこの行動は、普段から橋を利用する領民のためを考えたからでしょう。
それ以外にも長い目で見ればその都度渡し船を使うより橋を修復し自分で渡ってもらった方が、時間がかからず効率的だと考えたからです。
戦国時代を生き抜くために各大名は財政に頭を悩ませていました。徳川家康も領内の経済活性化に勤めていたはずですが、いつ起るかわからない戦に備えて貯蓄する必要があったのでしょう。日常生活はもちろんビジネスでも長い目で見て、最も効率的かつ時間のかからないやり方を行っていくのはとても大切なことです。家康の先見性に習う部分はたくさんあります。
将軍となった徳川家康が行った経済対策
江戸幕府が行った経済政策の一つに、三貨制度が挙げられます。以前の貨幣は私的に作られたものであふれていました。
銭は粗悪品が多く、鐚銭(びたせん、びたぜに)と呼ばれ、通常の貨幣よりも低い価値として扱われたのです。
そのため貨幣制度自体が安定せず、商売や流通に支障を来たしました。家康が行った三貨制度なら国主導で貨幣を製造し、通貨の種類や重さで価値を一定させることができます。
これにより貨幣の価値が分かりやすくなり、国で製造し国で使うという非常にバランスの取れたシステムを作り出すことができたのです。
私たちの生活においても物の価値をはっきりとさせ、分かりやすくするということはとても大切なことになります。家康の先を見据えた考え方は普段の生活はもちろん、ビジネスにも取り入れることができるでしょう。
真に価値あるお金の使い方とは
家康が思い切った政策を進めることができたのは、無駄な散財を行わず資産をためていたからです。
お金はここぞというときに真価を見せます。家康のように、真に価値あるお金の使い方をしていきたいですね。