富者の遺言 第1章 始まり~本当にそれでいいのですか? [第2話]

小説『富者の遺言』
元銀行員の男が起業をして、一時は成功の夢をつかみかけたが失敗する。男はなぜ自分が失敗したのか、その理由を、ジョーカーと名乗る怪しげな老人から教わっていく。"ファイナンシャルアカデミー代表"泉正人が贈る、お金と人間の再生の物語。
2017.7.7
平成23年11月11日17時
 秋の陽はとっぷりと落ちて、あっという間に夜がやってきた。街灯がチラホラ点きだして、僕の周りもぼんやりと人工の光で照らされ始めた。
 だけど、僕はというと、目はうつろで、大量生産のジャンパーで寒さから身を守りながら小刻みに震える姿はまるで、哀れな小動物のように見えただろう。
「温かいものが欲しいな…」
 僕はジャンパーのポケットに手をつっこんで小銭を何枚か探した。左のポケットに一枚、右のポケットに二枚あった。ほっとした気持ちが全身に広がる。
 しかし、その硬貨を全部引っ張り出した時、さっきよりもひどい落胆が僕を襲った。
「十円たりない」
 手の平に載せた硬貨の数はいくら数えても同じだった。
「飲み物ひとつ買えないのか…」
 ため息をついて、ようやくベンチを離れることに決めたとき、背後から声がした。
「これ」
 暗がりの向こうから、たしかに声が聞こえた。柔らかく芯の通った響きが心地良かった。
「誰?」
 僕は目を凝らして暗がりの向こうを見つめた。やがてぼんやりとした影は、はっきりとした輪郭に変わった。
「これ、良かったらお貸ししますよ」
  そこには十円硬貨を持った品の良い長身の老人が立っていた。見たところ、歳は七十歳位だろうが、姿勢が良いせいか、かなり大きく見える。白いあご髭をたくわえているその老人は微笑を浮かべながら僕にゆっくりと、しかし遠慮なく近づいてきた。
「どうぞ」
 老人は十円硬貨を僕の手に渡し、強く握った。
「あ、ありがとう…ございます。どなたか存じませんが、よろしいんですか?」
 僕は少し不審に思いながらも老人の厚意を受けることにした。口調は実に柔和だが有無を言わせぬ不思議な迫力も同時に感じた。でも、とにかくこれで温かい飲み物が買える!僕はお礼もそこそこに急いで自動販売機に向かった。一枚一 枚、硬貨を投入口に入れるにも入口に入れるにも手がかじかんでうまくいかなかった。
 なんとかすべての硬貨を投入し終え、お気に入りのロイヤルミルクティーのボタンを押そうとした時、またしても背後から声が聞こえた。
「本当にそれでいいのですか?」
 もちろん、老人の声だ。
「はい?」
 僕は老人の発言の意図が読めず思わず大きな声で尋ね返してしまった。
「だから本当にそれでいいのかね?」
「言っている意味がわからないのですが……」
 老人はゆっくりと歩きながら自動販売機の前に立ち塞がった。
「だから本当に、本当にそれでいいかね?」
 老人は先ほどと同じ柔らかくも迫力に満ちた声のトーンでまったく同じことを再度尋ねてきた。
(なんなんだ? この人)
 老人の意図がまるでわからない僕は、ほんの少しだが苛立ちを覚えた。
 確かに十円を貸してくれたのはこの老人だ。もちろん感謝もしている。しかし、たかが十円だとも言える。十円程度で飲むものまで指図されたのではたまらない。僕は今、温かいミルクティーが飲みたくて仕方がないのだ。
 僕は思い切って老人に言った 。
「お金をお借りしたうえでこんなことを言うのは、重々失礼だと承知していますが、僕が何を飲もうが僕の自由ですよね」
「………。」
 老人は僕の言葉に何も答えなかった。
「ひょっとして……僕が十円を借りたとき、あなたに頭を下げなかったことを怒っているんですか?」
 その質問にも老人は答えなかった。
「何とか言ってもらえませんか?もう遅い かもしれませんけど、この通り頭を下げますから勘弁してもらえませんか?」
 僕は、この状況をやり過ごそうと申し訳なさそうな態度でペコリと頭を下げた。
 しかし、老人はそんな僕の行動にもまるで動じることはなかった。
「そう言うなら、もっと頭を下げてもらえるかね」
 にこやかに微笑みながら僕の目を見てそう言った。
「はい?」
 老人の予想外の一言に、僕は一瞬戸惑ったが、精一杯の作り笑顔でこう返した。
「十円くらいで、随分強く出るんですね。頭を下げればいいんですね。はい、ありがとうございました!」
 僕はヤケになりながら、自動販売機の前に立つ老人に頭を下げた。
 さっきよりも丁寧に頭を下げる僕に老人は衝撃の一言を告げた。
「もう少し深く下げてもらえるかね」
 僕は何かの聞き間違えだろうと思い老人を睨みつけた。
 決して短気な人間ではないけれど、立て続けに理不尽な要求をしてくる老人に僕は怒りを感じた。(この理不尽さはあの時と同じだ!)
 でも、僕は怒りをぶちまけるのを踏みとどまった。脳裏に妻と子供の顔がはっきりと浮かんだからだ。
(ここでこの老人と喧嘩したところでなんになる。また、恵美と愛子に迷惑をかけることになるじゃないか。今だって十分迷惑をかけているのに、こんなくだらないことでふたりにこれ以上迷惑はかけられない! 別に減るもんじゃないんだ。そして早くアパートに帰ろう。早くアパートに帰らなかった僕が悪いんだ。アパートに帰って、今日起こったことは全部忘れてしまうんだ)
 心の声に耳を澄ました僕に冷静な判断能力がよみがえってきた。
「わかりました」
 僕はいくぶんクリアになったその頭を深々と下げた。
 そして頭を上げようとした瞬間、僕は老人が僕に伝えたかったことをすべて悟った。
「そういうことか…」
(毎週金曜、14時更新)

泉 正人

ファイナンシャルアカデミーグループ代表 一般社団法人・金融学習協会理事長

日本初の商標登録サイトを立ち上げた後、自らの経験から金融経済教育の必要性を感じ、2002年にファイナンシャルアカデミーを創立、代表に就任。身近な生活のお金から、会計、経済、資産運用に至るまで、独自の体系的なカリキュラムを構築。東京・大阪・ニューヨークの3つの学校運営を行い、「お金の教養」を伝えることを通じ、より多くの人に真に豊かでゆとりのある人生を送ってもらうための金融経済教育の定着をめざしている。『お金の教養』(大和書房)、『仕組み仕事術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など、著書は30冊累計130万部を超え、韓国、台湾、中国で翻訳版も発売されている。一般社団法人金融学習協会理事長。

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