富者の遺言 第1章 始まり~本当にそれでいいのですか? [第3話]

元銀行員の男が起業をして、一時は成功の夢をつかみかけたが失敗する。男はなぜ自分が失敗したのか、その理由を、ジョーカーと名乗る怪しげな老人から教わっていく。”ファイナンシャルアカデミー代表”泉正人が贈る、お金と人間の再生の物語。

2017.7.14
 僕の下げた視線の先に「あたたか〜い」と書いてある列があった。それは三段目だった。この販売機の陳列は全部で三段。その一番下の列、つまり三段目が「温かい飲み物」が並んでいる列なのだ。その上の一段目と二段目は「冷たい飲み物」のカテゴリーだったのだが、僕はとにかく早くミルクテイーを飲みたくて焦っていたから、とっさに目に入った二段目の列にあるミルクテイーを見て、そのボタンを押そうとしていたのだ。
 まさか「冬場に冷たいミルクテイーが自販機に入っているなんて思わない」という思いこみと「仮に温かいミルクテイーがあったとしても三段目にあるはずがない」という先入観、さらに付け加えるなら「早くミルクテイーを買って暖をとりたい」という思いが頭の中を支配していたのだろう。僕はこの老人に止められなかったら「冷たいミルクテイー」を買っているところだったのだ。おおげさに聞こえるかもしれないが、今の僕にとっては「たかがミルクテイー、されどミルクテイー」なのだ。
 老人は僕がそれに気づいたことがわかったのか、ゆっくり口を開いた。
「君は素直な人だ。こんな老人の不遜な要求にここまで応えるとは……」
 老人は自販機の前を僕に譲るといっそうの笑みをたたえながらこう言った。
「本当にそれでいいんだね?」
 僕は今度こそ自信を持ってこう答えた。
「ええ もちろん!」
 その時、僕は久しぶりに笑顔で答えている自分に気づいた。
「おいしい……」
 喉の奥に温かいものが流れ込んでいく。温かいミルクティーが僕の心と身体の両方を溶かすのにそれほど時間はかからなかった。老人は僕がみるみる元気になっていくのを見てただ嬉しそうだ。
「実に不思議なもんだな」
 老人の一言に僕は我に返った。
「どこにでも売っているミルクティー。しかし、今の君にとっては特別な飲み物なんだろう」
 僕は自分が感じていることを言い当てられ、少しバツが悪かった。
 老人は表情を変えずにそこに立っている。
「どこのどなたか存じませんが、今日は本当にありがとうございました。それと…」
「それと?」
「先ほどは失礼な態度を取ってしまって申し訳ありませんでした」
 僕は老人に再度、深々と頭を下げ感謝の念を伝え、同時に非礼を詫びた。
「いいえ、私こそ」
  老人も僕に頭を下げた。そしてこう続けた。
「君に会えて、本当に良かった」
 僕はホッとすると老人に背中を向けて歩き出そうとした。
 しかしその時、老人が僕を呼び止めた。
「ひとつ、いいかな?」
 その言葉に僕は少し緊張しながら老人の方を振り向いた。
「さっきの十円はちゃんと返してくれないか?」
 老人は真顔で僕にそう告げた。
 僕は一瞬身を固くした。しかし、老人はこう続ける。
「君が立ち直って、お金を自由に扱えるようになったら必ず返してほしい」
(…なんだ、この老人は僕を励まそうとしてくれているのか? きっと僕がさっきまで相当落ちこんだ表情でいたからだろう)
「いいですよ。必ず返します。この温かいミルクティーのご恩は忘れません。十円なんて言わずに、僕が本当に復活できたら、この十円を百万円くらいにしてお返ししますよ」
「それは、ダメだ」
 老人は僕の目の前で首を大きく横に振った。
「え、なんで?」
「返しすぎだな」
「返しすぎ?」
 僕は老人の真意を掴みかねた。
「じゃあ、いくらなら受け取ってくれるのですか?」
 僕は恐る恐る尋ねた。
「そうだな……返すなら十二円くらいが適当かな」
「え、十二円? いやいや、気持ちの問題ですからこれは。現に僕はあなたのおかげで、こうしてホッと一息つくことができたんですから……百万円でも安いと思えるときが来たら、必ず払いますから払わせてください」
 僕は内心「面倒くさい人だな」と思いながら、体裁のいい言葉を並び立てて、この場を収めようとした。
 しかし、次の瞬間、思いもかけない言葉が老人の口から放たれた。
「 …………だから、潰れたんだな」
「え?」
 老人の声は小さかったが、僕の心をざわつかせるには十分だった。
「君はお金について、あまりに知らなすぎるようだ。ずさんで曖味で勢いにまかせて…大盤振る舞いする、そんなだから失敗してしまったんだ」
 老人が発した言葉に僕は激しく反応した。さっき感じた怒りが、再びよみがえった 。
「あなたは何か知ってるんですか?あなたは誰なんですか!」
「私はジョーカーです」
(毎週金曜、14時更新)
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