「私の遺言だと思って聞いて欲しい」第17章[第38話]最終回

元銀行員の男が起業をして、一時は成功の夢をつかみかけたが失敗する。男はなぜ自分が失敗したのか、その理由を、ジョーカーと名乗る怪しげな老人から教わっていく。”ファイナンシャルアカデミー代表”泉正人が贈る、お金と人間の再生の物語。

2018.3.30
 この手紙を渡してくれた老人は、どこに行きましたか? と僕は看護師に尋ねた。彼女は夜間出入り口の方角を指差した。
 僕は、手紙の内容とこの夜に起きた不思議な出来事を妻に簡単に説明した。
「お願いだ、僕と一緒に来て欲しい」
「わかったわ」
 僕は、妻の手を握りながら自分がたどってきた道を一生懸命、早足で引き返した。暗く静かな廊下のなか、先頭を走る僕に必死でついていこうとする妻の息せき切った呼吸音が僕の背中を押してくれた。
「ジョーカーさん! 待ってください」
 老人は、これから車に乗り込もうとしているところだった。
「ん、何だね?」
「ここまで、してくれるなんて、本当になんて言ったらいいかわかりません。 あの、あ、ありがとうござ……」
 途中でジョーカーは僕の言葉を遮った。
「その先の言葉は、君の娘に対して使うんだ。私は彼女との約束を守ったに過ぎない。 それから、君は、明日から小さな卵焼き屋の店長見習いからスタートということになるがいいかね?」
「はい、なんでもさせてください!」
 老人は車に乗り込んだ。運転手は優しくドアをしめた。運転手が運転席にまわるまでの間、僕は車の窓に詰め寄り、老人に最後の質問をした。
「ジョーカーさん、最後にもうひとつだけ教えてください。どうして、最初から名乗ってくれなかったんですか?そうであれば、僕はあんなに失礼なことをあなたに何度も言うことはなかった」
 老人は少しおどけたような素振りを見せ、言った。
「切り札というのは、最後に切るものだ。それまでは相手の出方を見るものだよ。君とのおしゃべりはとても楽しかったよ」
 それだけ言うと、運転手に合図を送って、車はゆっくりと走り出した。
 僕と妻は老人の乗った車が見えなくなるまで、見送った。
「あなた……」
 妻は僕の手をそっと握ってきた。時刻はもう0時を回っていただろう。昨日という日が終わり、新しい一日がすでに始まっている。僕は妻の手を強く握り返した。
   ****
 その後の僕の話は、もう話す必要もないかもしれない。
 当たり前といえば、当たり前の話。ハッピーエンドだったわけじゃない。
 そこから、スタートだったんだから。
 ジョーカーさんから任された卵焼き屋は、大繁盛とまではいかなかったが、着実に地域に親しまれる名物店になっていった。僕が考案した卵焼きスティックは新たなお客さんを呼び込んでそこそこ好評だ。今は、もう一店舗増やすことを目標に頑張っている。
 それから、娘は手術が成功したおかげで、通常の生活を送れるようになった。来年からは学校に復帰する。学年は一年遅れになってしまったが、今は何よりも学校に通えるようになったことが嬉しいらしい。毎日楽しそうに妻のそばにいる。家事の手伝いまでできるようになった娘を見ると、本当に僕は泣きそうになるくらい幸せな気持ちでいっぱいになる。
 そして、僕の人生を変えてくれた老人、ジョーカーだが……。
 あの後も、私に対して、いろいろなことを教えてくれる。そして、話の終わる頃には、口癖のように、
「これは、私の遺言だ。私は明日死ぬかもしれないんだから…」と付け加える。
 ……しかし。
 今のところ、その気配はまるでない。ありがたいことだ。
]]>