村上:満知子先生とは本物の家族のように接していました。先生の家族旅行にも一緒に行っていましたし、中学生のときは帰る場所まで先生の家でした。過去には伊藤みどりさんも先生の家で暮らしていたそうですが、当時の私は世界ジュニアに向けての練習をしていて一緒に住んでいた方が楽だという話になり、母と二人で先生の家に住まわせてもらうことになったんです。
STAGE編集部:しかし、特殊な環境ゆえの苦労も。
村上:満知子先生は私にとって母のような存在。2人のお母さんがいるような感じだったのですが、それが辛く感じる時期もありました。反抗期には、先生がリンクで「佳菜!」と呼んでいるのに、わざと避けて回っていたこともありました。それが原因で試合前なのに1週間レッスンを受けさせてもらえなかったりしたこともありました。「リンクから上がりなさい」と。当時は毎日謝りに行っていました。
皆さん、私がよく笑っている印象を持って下さっているんですが、練習では毎日泣いていましたし、今振り返ってみると他の選手に比べても苦しかった時期も多くありました。それでもスケートを嫌いにならずに頑張れたのは、やっぱり満知子先生の言葉があったから。
STAGE編集部:山田満知子先生から贈られた言葉と、変化した意識。
村上:それは「愛されるスケーターになりなさい」という言葉です。1位になっても、みんなから愛されていない人間だったらすぐ忘れられてしまう。1位になれなくても、みんなから愛されていたら、ずっとみんなの心に残っていく。そういうスケーター、そういう人間になりなさいと教えてくださいました。
その言葉をいただいてから、アスリートとしては駄目なのかもしれないですが、ライバル心というのはあまり出なくなっていきました。とにかく自分のベストを尽くせば結果はついてくる。あの人が失敗すれば…と思っている時点で心がゆがんでしまっているし、そういう心の状況も演技に表れるので。
競技人生最大のピンチが最高の瞬間に!
STAGE編集部:競技生活で最も辛かった時期は?
村上:ソチオリンピックのシーズンは本当に辛かったです。その前のシーズンの最後の世界選手権で、自分の中での最高の演技ができたんです。でも「燃え尽き症候群」のようになってしまって。そのタイミングで大学に入学し、環境も変わって、全くスイッチが入らないまま、ぬるっとスタートしてしまったんです。最初の方は、最下位になるぐらい状態が悪くて、このままじゃ代表にも選ばれないと周りからもすごく言われて、初めて本当のプレッシャーというものを感じるようになりました。
あっこちゃん(鈴木明子さん)と真央ちゃんと一緒にオリンピックに行きたい、というプライドはあるのですが、うまく心が乗ってこない。体も動かないという苦しさにずっと悩まされていました。そして、そのまま最後のチャンスの全日本選手権まで2週間というところまでいってしまったんです。
STAGE編集部:全日本選手権まで2週間。そこで下した大きな決断とは…
村上:思い切ってショートプログラムの曲を変えることにしたんです。直前のショートプログラムだけの大会のときに、もうこの曲では駄目だなと思って、先生にそれを話そうとしたら逆に先生からも言われて。その試合の夜にはリンクを貸し切って、振り付けをやり直しました。通常3か月かけて仕上げるプログラムを直前に変更したあの決断は本当に大きかったと思います。
結果的にガラッと心機一転、スイッチが入ってうまくいったのですが、その全日本はよくアスリートが言う「降りてきた」体験をした唯一の試合でした。普段はミジンコのハートですぐ緊張してしまう私が(笑)不安なことがたくさんあるはずなのに、しかも私の前に宮原選手がすごい点数を叩き出していたのに「大丈夫、出来る!」と思えたんです。本当に思い出しただけでも鳥肌が立ってしまうほど。後にも先にもあんな試合はないですね。