2017.4.14
ウォーキングトレーナーのデューク更家さん。独特の呼吸法が話題を呼んだ「デュークズウォーク」を考案。気功や運動生理学、武道、ヨガ、バレエ、ピラティスなどの要素を取り入れたデュークさんオリジナルのメソッドで、日本にウォーキング文化を広めた第一人者。2002年からはモナコに居を構え、日本とモナコを行き来する憧れの生活を送っています。そんなデュークさんの人生観を、「お金」を切り口に紐解きます。
■お金がなかった幼少時代
STAGE編集部:デュークさんといえば、都会派というイメージがありますが、どんな環境で幼少時代を過ごされたのでしょうか。
和歌山の新宮というところで育ったんですけど、トタン長屋のすごく貧乏な家でした。トイレもなかったしお風呂もなかったです。まあ、昭和29年生まれだから、当時はお金持ちなんて本当に一握りでした。
親父は、散髪屋だったんですけど、俳句も短歌も得意で、水彩画も上手かった。ギターも弾けるし、とにかく趣味が多くて芸術的なセンスに秀でていました。ただ、仕事をするのが大嫌い(笑)。1日5人ぐらいお客さんが来たら、もう店じまい。
おふくろは、新宮ではお金持ちのお嬢さんだったから、2人が喧嘩するときは、お金の話でしたね。すごい教育熱心なおふくろで、「勉強せえ」とよく言われました。
親父は、散髪屋だったんですけど、俳句も短歌も得意で、水彩画も上手かった。ギターも弾けるし、とにかく趣味が多くて芸術的なセンスに秀でていました。ただ、仕事をするのが大嫌い(笑)。1日5人ぐらいお客さんが来たら、もう店じまい。
おふくろは、新宮ではお金持ちのお嬢さんだったから、2人が喧嘩するときは、お金の話でしたね。すごい教育熱心なおふくろで、「勉強せえ」とよく言われました。
STAGE編集部:当時の夢は何だったのでしょうか?
高校では、バスケットボールに打ち込みました。インターハイでベスト8ぐらいまで行きましたよ。ただ、当時の夢は、石原裕次郎さんなんですよ(笑)。おふくろに、「大学行けへん。映画俳優になる。俳優になって、お金稼いで楽させるから!」って言ったら、「そんなんあかん」と一蹴されましたね。
それで、バスケの推薦で大学に進学しました。1年から4年までレギュラーだったんですけど、入部したときに、監督にも先輩にも「貧乏でお金がない!」と打ち明けて、アルバイトにも精を出しましたね。朝5時半から団地を回って、パンを運ぶアルバイトをしていました。
それで、バスケの推薦で大学に進学しました。1年から4年までレギュラーだったんですけど、入部したときに、監督にも先輩にも「貧乏でお金がない!」と打ち明けて、アルバイトにも精を出しましたね。朝5時半から団地を回って、パンを運ぶアルバイトをしていました。
■4,000万円の借金を抱えて
STAGE編集部:朝5時半からアルバイト。エネルギッシュですね
アルバイトでお金が少し貯まったので、親孝行しようと大学4年生のときにジーパン屋さんを始めました。お店だけじゃ飽き足らず、ジーパンのデザインにも手を広げて、卸も始めました。大阪中にジーパンを卸して回っていたので、結構儲けましたね。
お店も心斎橋に出すぐらいに大きくなったんですけど、その後、デザインした商品が全く売れなくなって、大失敗ですよ。4,000万円ぐらい借金を抱えてしまったんです。昭和40年代の話だから、今だと1億円ぐらいの借金です。
お店も心斎橋に出すぐらいに大きくなったんですけど、その後、デザインした商品が全く売れなくなって、大失敗ですよ。4,000万円ぐらい借金を抱えてしまったんです。昭和40年代の話だから、今だと1億円ぐらいの借金です。
STAGE編集部:借金4000万円! そこからどう這い上がったのですか?
自己破産はしたくなかったので必死でしたよ。もともとショートスリーパーなんですけど、当時の睡眠時間は2、3時間。朝は市場でタマネギ運んで、昼はメンズのデザインメーカーで働いて、夜は炉端焼き屋で店長をして、3つを掛け持ちです。ひと月で80万円を返済したりしていました。