当たり前のように長崎へ逃げた紀州藩の船長を相手に、龍馬は再度長崎にて賠償問題について話をしています。
その時に、交渉材料に使ったのが当時の海運業の世界ルールであった「万国公法」です。
国内のルールであれば天下の徳川家を相手に勝利する目は少なかったでしょう。
「今回の賠償問題は国内はじめての西洋式蒸気船同士での衝突である。国内のルールではなく海外のルールに則って話合いをしよう」と、長崎での話し合いの前に龍馬が事前に準備していたのでした。
紀州藩からすると見た事さえない共通のルールを突然突きつけられてさぞ驚いた事でしょう。
その時に、交渉材料に使ったのが当時の海運業の世界ルールであった「万国公法」です。
国内のルールであれば天下の徳川家を相手に勝利する目は少なかったでしょう。
「今回の賠償問題は国内はじめての西洋式蒸気船同士での衝突である。国内のルールではなく海外のルールに則って話合いをしよう」と、長崎での話し合いの前に龍馬が事前に準備していたのでした。
紀州藩からすると見た事さえない共通のルールを突然突きつけられてさぞ驚いた事でしょう。
③ 相手の落ち度を広めろ!
「万国公法」に則り航海日誌の交換や衝突する前のお互いの回避方法など、相手の落ち度を紀州藩に突きつけた龍馬でしたが、たかが浪人集団である龍馬たちに負けたとあっては紀州藩の武士の面目がたちません。
御三家を相手取り対等な立場で話し合いを試みた坂本龍馬でしたが、紀州藩側ははぐらかすばかりで話し合いは一向に進みません。
御三家を相手取り対等な立場で話し合いを試みた坂本龍馬でしたが、紀州藩側ははぐらかすばかりで話し合いは一向に進みません。
その時、坂本龍馬は民衆の力を借りるためにある歌を花街で流行らせたといいます。
「船を沈めたその償いに、金を取らずに国を取る」といった内容の歌で紀州藩のネガティブキャンペーンを開始します。
今でいうところのツイッターでの拡散をその当時から行っていたのです。
「船を沈めたその償いに、金を取らずに国を取る」といった内容の歌で紀州藩のネガティブキャンペーンを開始します。
今でいうところのツイッターでの拡散をその当時から行っていたのです。
④ 立場のある人間を頼れ!
いかに理屈立てて正しさを主張したとしても武士である紀州藩は認めようとはしません。
最終的に龍馬は海援隊のスポンサーの一人である土佐藩家老「後藤象二郎」の力を借りることで、紀州藩との話し合いを対等な立場に持っていくことに成功します。
話し合いの中では「一戦交えようか」といった話も出るほどで、ひとつの船の沈没事件が藩同士の衝突に繋がる危険性さえあったのです。
最終的に龍馬は海援隊のスポンサーの一人である土佐藩家老「後藤象二郎」の力を借りることで、紀州藩との話し合いを対等な立場に持っていくことに成功します。
話し合いの中では「一戦交えようか」といった話も出るほどで、ひとつの船の沈没事件が藩同士の衝突に繋がる危険性さえあったのです。
紀州藩側も戦争を始めてしまうと軍事費用もかかってしまいます。
結局は、後藤象二郎の登場により紀州藩は自分の落ち度を認めて7万両もの損害賠償を支払うことでいろは丸事件は解決したのです。
結局は、後藤象二郎の登場により紀州藩は自分の落ち度を認めて7万両もの損害賠償を支払うことでいろは丸事件は解決したのです。
⑤ バレないウソも時には必要!
実は、この事件には現代になって明かされることとなった後日談があります。
いろは丸は海上運搬を目的とした積荷船であるため、賠償額の中には積荷の代金も含まれているのです。
積荷の中で最も高額であったのが最新式のミニエー銃や金塊の損害だったのですが、近年のいろは丸の沈没船調査によって物資の中にミニエー銃の部品や金塊の類は一切見つかっていない事が明らかになっています。
当時の技術では急流流れる笠岡諸島の海底調査は到底出来ないことから、坂本龍馬は権力者を相手に堂々と大ボラを吹いていたのです。
示談交渉の最中には8万両の損害賠償を要求していた龍馬が、最終的に7万両に減額することで納得したことも、紀州藩側に小さな勝ちを与える交渉術のひとつだったのかもしれません。
幕末の英傑・井伊直弼には報われない「世捨て人」時代があった

幕末の混乱期に、幕府大老として開国を断行し「安政の大獄」で大粛清した井伊直弼ですが、その前半生の大半が、実は「世捨て人」の身であったことは余り知られていません。その生き様から何を学んでいったのか、その軌跡を辿ってみましょう。