2019.5.3(2019.11.14更新)
「幸せとは快楽だ!」ベンサム哲学による定義とは?
幸せとは何か? 18〜19世紀を生きた英国の哲学者Jeremy Bentham(ジェレミー・ベンサム)によれば、幸せとは、ある人間にとっての快楽であり、同時に社会の幸福を増大させることはあっても、減少させることはないもの、とされます。この条件に当て嵌まる快楽こそが、人間にとっての幸せなのだ、という哲学です。快楽こそが幸福を生み出し、不幸を防ぐものでもある、ともする考え方ですね。従って、他人の不幸を喜んで快楽に浸る、などというのは幸せとは言えないことになります。
これが「最大多数の最大幸福」という考え方(ベンサムの功利主義)であり、欧米圏で広く支持される「幸せとは?」を理解するための哲学なのです。この「最大多数の最大幸福」を実現するために、道徳や法律・ルールなどが存在すべきである、というのが欧米圏では一般的な価値観です。ここから、悪法であれば進んで改められるべきである、という共通の価値観も生まれます。
そして、人間の身体の基本構造は誰でも同じですから、身体にもたらされる快感としての快楽である前提では、それを量として測り、お互いの快楽(幸福)の大きさを比較検討可能である、という考え方がベンサム哲学では導き出されることになります。身体的快楽の総量が大きい方が、幸福の最大化がなされるベターな選択である、と結論付けられることになる訳ですね。ちなみに、「チームの勝利に貢献できて嬉しい!」などのような精神的快楽も、ベンサム哲学によれば、究極的には身体的快楽をベースとする派生的な快楽である、と解釈されます。
「幸せとは量より質だ!」ミル哲学による定義とは?
一方、19世紀の英国の哲学者であり、経済思想家でもあったJohn Stuart Mill(ジョン・スチュアート・ミル)は、「最大多数の最大幸福」という(ベンサムの功利主義)を受け容れつつも、人間の幸せとは量的比較よりも、質的比較こそされるべきもの、と喝破しました。身体的快楽や物質的快楽以上に、人間は「満足感」や「喜び」「感動」などの精神的快楽を幸せとして追求できる、とするのがミル哲学です。例えて言うなら、モノそれ自体よりも、その「入手方法」や「入手プロセス」こそが快楽には大切、という意見です。
子供が日々お手伝いをして、貰ったお小遣いをコツコツ貯めてプレゼントしてくれたペンだったら、仮に500円の安価なものであったとしても、エアラインやカーディーラーから贈られるブランド物のペンよりも大切に感じ、目にする度に幸福感に満たされるのではないでしょうか。幸福とは低次元のものと、高次元のものとが混在し、動物でも持てるような低次元の身体的快楽ではなく、人間として持つ高次元の精神的快楽を重視すべき、とミル哲学は説きます(低次元の快楽に幸福を感じる人間も、ミル哲学では否定していません)。
ここから、快楽には質的な差異がある、と説かれることになる訳ですね。精神的快楽は身体的快楽や物質的快楽よりも、永続性・安定性・コスト面などから優れていて、質においてより優れた高い価値の快楽である、とミル哲学では捉えます。例えば、育てた部下の献身的な働き振りが心の琴線に触れた、といった精神的快楽においては、時間を経ても感動を呼び起こした事実が失われることはありません。自らの脳内にある記憶を辿るだけで、いつでも好きなだけ精神的快楽に浸ることが可能だからです。
名言に見る、「幸せとは?」を考える哲学
最後になりますが、「幸せとは?」を考える縁(よすが)になる、哲学の匂いがする名言2本を紹介しましょう。