「自由に働きながら、世界を変える。」24歳で単身アフリカへ

フリーランス国際協力師としてウガンダ共和国に単身で飛び込んだ筆者。学生時代に携わってきた活動を振り返りながら、今の働き方に至った経緯をご紹介します。

筆者とウガンダの子どもたち

筆者とウガンダの子どもたち

2019.4.1
「自由に働きながら、世界を変える。」 フリーランス国際協力師として活動する僕が掲げるコンセプトです。この記事を書いている今、僕は東アフリカのウガンダ共和国に滞在しています。 「国際協力」という言葉を聞き、あなたはどんなイメージを持つでしょうか。 途上国の農村部に派遣され、子どもたちに日本語を教える教師?紛争地から逃れた難民に、衣食住の支援をするNGOスタッフ?有名大学院を卒業し、世界中を飛び回っている国際機関の職員? 世間一般で考えられている国際協力の仕事は、こんなところかもしれません。 僕は今、「フリーランス×国際協力」という新しい働き方に挑戦しています。その仕事内容はきっと、皆さんが想像する国際協力とは少し違うかもしれません。 STAGEで書く最初の記事。今回は僕がウガンダで活動することになった最初のきっかけと一緒に、フリーランス国際協力師という働き方に至った経緯をお伝えします。

10万人が犠牲になったウガンダ内戦

ウガンダ北部の夕暮れ

ウガンダ北部の夕暮れ

まだ大学3年生だった2016年1月、僕は一人でウガンダ共和国を訪れました。 今でさえアフリカの中でも比較的治安のいいウガンダですが、この国では1980年代から20年以上続いた内戦の影響で、衣食住のニーズを満たせずに暮らす人々がたくさんいます。 特にウガンダの北部では、反政府組織による村の襲撃や政府軍との戦闘が多発しました。この内戦で、少なくとも10万人以上が犠牲になったと言われています。 ウガンダの内戦でとりわけ注目を浴びたのが、子ども兵の問題です。内戦中、反政府組織によって3万人以上の子どもが誘拐され、兵士として戦場に駆り出されてきました。 僕はもともと、大学の海外ボランティア団体に所属し、バングラデシュの児童労働問題に取り組んでいました。その過程で最悪の形態の児童労働とされる「子ども兵」に問題意識を持ち、実情を少しでも理解しようとウガンダを訪れたのです。 そこで僕は、元少女兵のアイ―シャさんという女性と出会いました。

彼女は14年間も拘束された

従軍中の体験談を聞いている様子

従軍中の体験談を聞いている様子

「少年兵」という言葉に聞き覚えある人は多いと思いますが、実際の戦場には女の子の兵士、つまり「少女兵」もいます。僕が出会ったアイ―シャさんもそのうちの一人でした。 2000年12月19日、彼女がまだ12歳だった頃です。夜中に一人で道を歩いていたところ、反政府組織に突然誘拐されました。 そして、26歳で脱退するまでの実に14年間、彼女は反政府組織に拘束され続けたのです。 彼女が従軍中に体験したことはあまりにも壮絶でした。何日間も飲まず食わずで森の中を歩き続けたこと。大人兵士と強制結婚させられて子どもを産んだこと。生まれたばかりの赤ん坊を抱え、政府軍から逃れるため走り回ったこと。 彼女の口から語られる話を聞き、僕はメモを取る手が震えてしまいました。

「苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」

ウガンダ北部グル市内の様子

ウガンダ北部グル市内の様子

アイ―シャさんの体験談を聞き、僕はある言葉を思い出しました。 「苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」 フランスの哲学者、P.リクールの遺した言葉です。 従軍中の彼女の体験談を直接聞いた者として、この問題に向き合いたい。自分にできることをやりたい。そう決心した僕は、当時通っていた早稲田大学を半年間休学し、元子ども兵の社会復帰を支援するNGOでインターンを始めました。

就活の道を捨て、在学中に新しくNGOを起業

ウガンダ北部の田舎道

ウガンダ北部の田舎道

アフリカでの支援活動に携わる傍ら、ブログで現地の情報を発信したり、自らの経験をまとめた本を出版したりと、大学生ながら僕はバリバリ活動していました。 そして2017年5月、早稲田大学に復学してすぐの頃には就活の道を捨て、新しく自分でもアフリカ支援のNGOを起業しました。 大学に通う傍ら、国内で資金集めに奔走し、毎週のように講演をして、ブログも書き、夏休みにはウガンダに行って現地で支援に取り組む。その様子はテレビでも取り上げられるなど、多くの人に注目していただきました。 学生とは思えないほど忙しい毎日でしたが、今思い返しても充実した日々だったと感じます。

大学卒業後、適応障害を発症

そんな順風満帆に思えた僕の活動も、一度完全にストップしてしまいました。大学を卒業して間もない去年5月頃、心の病気になってしまったのです。 心療内科からは「適応障害」と診断されました。在学中から続いていたハードワークに加え、団体の代表としてのプレッシャー、人間関係の悩み、大学卒業という環境の変化…。それらが一度に重なって、脳が「この辺りで一度休んだ方がいい」とブレーキをかけたのだと思います。 仕事からは完全に離れ、ひたすら休むだけの毎日が始まりました。本当であれば翌月からウガンダに戻る予定だったのですが、予約していた航空券もキャンセルしてしまいました。 朝起きると体が鉛のように重たく、何をする気にもなれません。一日中ベッドで寝ていた日もあります。理由もなく涙がこぼれたことも。 「周りの同期はとっくに社会人として働いているのに、どうして僕はこんな体になってしまったのか。」そう、自分を責める日が続きました。

自ら起業した団体を、自らの意志で離れた

子どもたちと遊ぶ筆者

子どもたちと遊ぶ筆者

病気を発症してから半年が経った頃、僕は一つの決心を固めました。自ら起業した団体を、自らの意志で辞めることにしたのです。 寝る間も惜しみ、毎日必死になって働いていた団体を離れる。大好きだったはずの仕事を辞める。その決断を固めるには、とても大きなエネルギーを使いました。 でも、その頃には団体に戻り、以前と同じように働いている自分の姿を想像することは難しくなっていました。それに、適応障害になった原因が「団体で働く」ことにあったからこそ、その原因を取り除くためにも団体から離れることを決めたのです。

フリーランスとしての再出発

現地パートナーと筆者

現地パートナーと筆者

でも、起業した団体から離れたといって、国際協力に対する想いがゼロになったわけではありません。むしろ病気の症状が少しずつ改善していくうちに、「もう一度アフリカに戻りたい」という気持ちが芽生え始めました。 そして今年に入ってから僕は、フリーランスとして活動を再開したのです。 国際機関やNGOなど、ある組織に所属しながら実践するものとされてきた国際協力。そんな風潮もある中で、僕はどの組織にも属することなく、フリーランスとして国際協力に携わることを決めました。 現地で支援活動に携わることだけが今の仕事ではありません。時には現地人パートナーとYouTubeを使いアフリカの問題を発信したり、時にはブログで国際協力に関する記事を書いたり、時には日本で学生対象に講演を行ったりしています。

世間一般で認知されているような国際協力とは一線を画すかもしれませんが、自由に働きながら世界を変える「新しい国際協力」を追求する、それが今の僕の仕事です。 適応障害を経験し、一度はすべてを失ったと思いました。起業した団体を辞める時、何日間も胸の苦しい日が続きました。 でも、今こうしてウガンダに戻ってきて活動を再開し、その様子を皆さんにお伝えできることを本当に嬉しく思います。 「自由に働きながら、世界を変える。」この連載を通じて、僕が追求する新しい働き方を読者の皆さまに知ってもらえれば幸いです。
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原貫太

原貫太

1994年生まれ。フリーランス国際協力師。早稲田大学卒。
フィリピンで物乞いをする少女と出会ったことをきっかけに、学生時代から国際協力活動をはじめる。これまでバングラデシュのストリートチルドレンやウガンダの元子ども兵、南スーダンの難民を支援してきた。
大学在学中にNPO法人コンフロントワールドを設立し、新卒で国際協力を仕事にする。また、出版や講演、ブログを通じた啓発活動にも取り組み、2018年3月小野梓記念賞を受賞した。
大学卒業後に適応障害を発症し、同法人の活動から離れる。半年間の闘病生活を経てフリーランスとして活動を再開。現在はアフリカと日本を行き来しながら、国際協力をテーマに多様な働き方を実践している。著書『世界を無視しない大人になるために』 ブログ:https://www.kantahara.com/
Twitter:https://twitter.com/kantahara
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