北条早雲は理想のビジネスマン!人情・気配り・ユーモア溢れる人柄に迫る!

戦国大名の先駆けとなった北条早雲。彼には一介の浪人から下剋上でのし上がったダーティなイメージがありますが、非常に細やかな気配りのできる人だったようです。早雲が残した家訓「早雲寺殿廿一箇条」を読むと苦労人であった彼の人柄がうかがえます。

2018.9.10
戦国時代は綺羅星の様に数多の戦国大名が登場し、小説・ドラマやゲームのモチーフとしてよく取り上げられています。その中で最初の戦国大名と言えばだれを思い浮かべるでしょうか。諸説ありますが、知名度や後の歴史に与えたインパクトの大きさから「北条早雲」こそ戦国大名第一号にふさわしい人物だと思います。

戦国大名の先駆者

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北条早雲の出自ははっきりしておらず、長らく一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型と言うのが通説になっていました。
しかし、最近の研究では名門「伊勢氏」の出身で、室町幕府の高級官僚だったという説が主流になっています。早雲は将軍足利義政の弟の義視に仕えていたとされています。
早雲の妹が駿河国守護の今川氏に嫁いでいた関係から、妹に誘われ駿河国に下りました。幕府からも今川氏を助けるように命じられていたのかもしれません。この時今川氏では熾烈な家督争いが起こっていました。早雲はこの騒動を見事な手腕で収め、駿河国の興国寺城を与えられています。
この調停の際に早雲は関東の名将・太田道灌とサシで会談しています。早雲は『三人人間が集まれば必ず一人は手本とするところを持っているものだ。』と言っていますが、江戸城を始めて築いた知勇兼備の英雄と知られた太田道灌から学ぶことも多かったはずです。

民政の達人で、領民に寛大かつユーモアを兼ね備えた人

その後、早雲は内乱に乗じて伊豆を乗っ取りますが、国を力で奪い取った領主にも関わらず、土地での評判は悪くありません。早雲は伊豆を治めた際、それまでの重い税制を撤廃しています。
そのため、悪性に苦しんでいた領民たちはすぐに早雲に従うようになり、伊豆はわずか1カ月で平定されました。富国強兵よりもまずは民の生活の安定を優先した早雲の姿勢がうかがえます。
また、領民にとっても寛大な領主であったようです。あるとき、馬泥棒が捕まり、領主である早雲自ら裁判を行うことになりました。そのとき馬泥棒が早雲を指さして言いました。
「向かいの席に座られているあの方(早雲)は、国を盗んだじゃないか」
普通だったら怒るところだと思います。でも早雲は「その通りだ」と笑って、その馬泥棒を許してやったといいます。このエピソードが伝えるところは、早雲が領民に寛大で、かつユーモアを兼ね備えた人物だったということです。

気配りの人

先ほどの、馬泥棒の話もそうですが、早雲の逸話の中には人情話が数多く残されています。たとえば、伊豆へ攻め入っていたころ、仲間に病人がいれば医者を遣わせたり、部下に看病を依頼したりしました。一時逃げ散っていた領民たちは「今度の領主様は情け深いお方だ」という噂を聞きつけて帰ってきたということです。
早雲は「早雲寺殿廿一箇条」という家訓を書き残していますが、これをよむと彼が非常に気配りができた人であることが分かります。その中には現在のビジネスマンの心得としても通じるものがあります。
第九条『主人の言いつけに対し、まず素早く「はい」と返事し、近づいて謹んで聞きなさい。用事を果したなら、あったとおりのことを報告しなさい。分の才気をひけらかすような大げさな物言いをしてはならない。』これは「報・連・相」の大切さを教え諭しています。失敗を取り繕ったり、成果を大げさに報告したりすると後で面倒なことになるので、正確に報告した方が良いですね。
第六条『ことさらに服装を飾り立てることは避けなさい。』
第七条『非番でも何があるか分からないのだから髪ぐらいは結っておけ。』
これは身だしなみについて言っています。昔も今も服装や身だしなみはその人の印象を左右します。早雲も普段から身だしなみには気を付けていたのでしょう。
早雲に始まる北条氏は、その後5代に渡って、およそ百年の間広く関東を支配しますが、その礎となったのは、早雲の繊細な「気配り」、そして領民を思いやる心にあったのではないでしょうか。
創造情報研究所

創造情報研究所

歴史ライター、サイエンスライター
元来はシステムエンジニア。システム開発で培った情報整理術を活用してライティングを手掛ける。得意分野は歴史、科学技術。
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