その「価値」を構成するものは何か~『お金原論』[第17回]〜

「お金」とは何か ── 。このシンプルな命題に、現代の視点から向き合おうというのが『お金原論』という新しい学問だ。現代において、私たちの生活とお金とは一蓮托生だ。お金の悩みから解放され、自由な時間を産み出し、心に描く夢のライフスタイルを実現したい。そんなあなたへ。

2018.3.20
『お金原論』という本の命題は、「お金とは何か」ということ。
「お金」という軸を通じて自分自身をニュートラルに見ることができれば、人生をもっともっと楽しめるようになるだろう。
これから毎回、『お金原論』の中身を少しずつ伝えていく。すべてが賛同を得られるものであるという確信はない。しかし、生活や人生と切っても切り離せない「お金」というものについて、1人でも多くの人に「お金とは何か」という議論に加わっていただければ幸いである。

その「価値」を構成するものは何か

もう1つ、価値と価格を考えるうえで意識したいことがある。それが、その価値を生み出しているのが人、つまり人間なのか、それとも機械なのか、ということだ。
例としてわかりやすいのは寿司だろう。下積みから修行を重ねて技術を磨いてきた大将が、一貫一貫心を込めて握った寿司と、すべて機械によって自動化され、人の手を介さずに握られた寿司。同じようにカウンターで食べるにしても、その価値を構成しているものの中身は大きく違う。
寿司の名店と回転寿司ではそもそも価格帯が違うから、という単純なことではない。同じ700円の煮魚定食であっても、昔ながらの定食屋で提供されるものと、ファミリーレストランで提供されるものでは、過程がまったく異なる。
前者は(料理の腕前はともかくとしても)、仕入れた魚を店でさばいて鍋で煮て、経験をもとに調味料を加え、その都度、味見をしながら完成する。一方、後者は工場のラインで製造され、個別にパッケージングされて店舗に運ばれる。それをアルバイト店員が決められた時間、決められた温度で温めて提供しているのが一般的だろう。言ってみれば、スマートフォンやビニール傘と同じ「工業製品」である。
700円という価格は同じでも、その価値の中身は本質的に異なるということがわかる。
家具や服もしかりだ。職人が1脚1脚手作りしている椅子と、組立工場のラインの中で大量生産されている椅子。職人が1枚1枚裁断から裁縫まで手作りしているワイシャツと、縫製工場のラインの中で大量生産されているワイシャツ。これらの価値の違いは明らかだろう。
価値の違いは理解できるけれど、手作りのものは大量生産のものと比べて価格が高くなりがちだから、限られた収入の中では工業製品に頼ってしまうのも仕方のないことなのではないか、という反論もあるかもしれない。確かにそういった側面があるのも否めないが、これも突き詰めればこだわりの問題だ。
イギリス王室のキャサリン妃は、庶民的な価格でありながらもハイセンスな服を身にまとっていることで知られる。その彼女が、娘のシャーロット王女の写真を公開したときに着せていたのは、生後半年、1年ともにスペインの小さなファッションブランド「M&H」だ。すべての製品がハンドメイドであるにもかかわらず、王女が着ていたワンピースは29・95ユーロ(当時約4,000円)だという。価格に対する価値が限りなく高い例といえるだろう。
私自身も、美味しいものを食べることがかけがえのない趣味の1つなのだが、店を選ぶときには、価値の中身を非常に重視している。リーズナブルで美味しくても、工業製品として作られたメニューが並ぶ店は避け、料理人自らが「美味しいものを食べてほしい」という想いを込めて料理を作ってくれる店に繰り返し通う。そして、お酒や料理はもちろん、水もあえて有料のものを注文するなど、ささやかではあるが、少しでも多くの売上げが立つような応援をしている。
ファミリーレストランにも工場にも、そこで働く「人」がいるではないか、という反論もあるだろう。もちろんそうだ。工場で働く人やその経営者にも「1 人でも多くの人に届けて喜んでもらいたい」という想いがあるかもしれない。しかし、それがパッケージングされ、配送業者によって店舗に運ばれ、店舗で働く人の手によって販売されるという過程を経ることで、提供する側の「温もり」は必然的に薄まってしまう。
何も、工業製品だから悪いと言っているのではない。重要なのは、お金を支払うときに、その価値の中身は何なのかを意識する、ということだ。「寿司が◯◯円」「煮魚定食が◯◯円」「椅子が◯◯円」という支払う対象のモノやサービスと価格とを比較するだけでなく、それがどういった過程を経てここに存在しているのかを考える習慣をつける、ということだ。そうすることで、さらに複眼的に価値を見極めることができるようになる。
(『お金原論』132〜135ページより転載)
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